信じることって何なのでしょう?
私たちは、生活の中でも、いろいろなことを信じて生きています。たとえば、電車に乗るために駅にいったら、電車が(普通は!)時間通りに来ることを信じていますし、レストランに入って注文したら、注文したものが毒など入らずに出てくることを信じています。ポストに入れた年賀状が相手に届くことも疑いません。信じることって、案外、日常生活の基本にあるようです。
さて、ここで、キリスト教入門では、「キリスト教って、イエス・キリストを信じることなんですよね?」と、人は普通に考えます。
でも、このイエス・キリストを信じることっていったい何なのか、案外クリスチャンでもあらためて問われると、よくわからないことが多いのです。
それでは、ここで、まず言葉の整理 から初めてみましょう。「信仰」は普通、大きく分けて二つの意味で使われます。
一つ目は、
1)「信じていることの中身」信仰の内容の意味。
そして、もう一つは、
2)「信じること」そのことの意味です。
1)は、イエス・キリストについての知識、たとえば、十字架にかかって死に、その後復活したとか、奇跡を行ったとか、またはイエスの語った言葉に基づく様々な内容、神は愛であるとか、罪からの救いとか、等々です。
この内容は、時代によって、強調点や、説明の仕方が違ったりします。
「カトリックの信仰は、プロテスタントの信仰と違う。」というような表現は、この「信じていることの中身」の意味です。
次の「信じること」についてはどうでしょうか?
2)これが、聖書、特に福音書の中でイエスが語る「信仰」です。
一つのエピソードを見てみましょう。
医者であったといわれるルカが語る宣教中のイエスのエピソードです。この時、奇跡を起こして病をいやす人、預言者として有名になっていたイエスは、頼まれて一人の少女をいやすために、弟子達とともに、町中を急いで歩いていました。人々は、彼に触れようとして、押し合いへしあいしていました。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
出血病をわずらっていた女の、絶望が、「医者に全財産を使い果たしたが、治してもらえなかった」という表現か ら伝わってきます。当時の律法いう掟によると、出血している女は、「汚れた」存在でした。社会生活に受け入れてもらうことすらできなかったのです。「汚れた」存在が触れたものは「汚れて」しまうという理由から、女は人とふれあうことも禁じられていました。
ですから、女が人前に出てきて、イエスの服のふさに触れたのは、一か八かの、ある意味で命がけの行為だったのです。イエスのことを聞いた女は、その指先に、全ての思い、全ての希望をこめたはすです。
イエスは、その指先を感じます。
そして言います。「わたしに触れたのは誰か?」
なにも知らない弟子達は、こんなに大勢の人が回りを囲んでいるのに、だれが触れたなんて聞くのはナンセンス!だと思ったことでしょう。
でも、イエスは、再び言います。
「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」
イエスに「触れ」、イエスから「力を引き出すこと」の出来る力。
これが、聖書の語る「信仰」です。
ここでいう「信仰」は、1)で見たような、「何を」信じるかではなくて、
「誰を」信じるかが中心になります。
「信仰」の中心は、かかわりであり、信頼なのです。
イエス・キリストを信じるという時、まずはじめに、イエス・キリストとのかかわりの中で、私にこのような「かかわり」、「信頼」があるかどうかがはじまりとなります。
<続く>
文:片山はるひ NDV