【本の紹介】『テゼ ー巡礼者の覚え書きー』

2014年3月29日

 

書評 『テゼ— 巡礼者の覚え書き』

 

「泉」への招き

 テゼ

「待っていた本がついに出た!」これが、この本を手にした私の率直な思いだった。テゼという名は、今ではキリスト教世界では知られるようになり、その歌や祈りの集いの存在を知る人は多くなった。だが、「テゼ」がなんであるのかを簡潔にのべ、そのメッセージの核心を語り、具体的に巡礼のガイドブック的役割までも担う本は今まで日本では存在しなかったからだ。これからは、「テゼ」を知りたい人には迷うことなく、まずこの本をすすめることができる。多くの美しい写真で丁寧に作り込まれた装幀は、テゼが大切にしている簡素さと美しさをともに表現しているかのようだ。また、第6章には、テゼに関して知りたい人、テゼを訪れたい人のための情報がすべて盛りこまれている。

わたしは、今まで3度テゼを訪れた。一度目は自分が若者として、2度は若者達の同伴者として。3度目に訪れたのは、2013年のワールド・ユース・デイにフランス経由でマドリッドに向かった時だった。その時の20名近くの若者達に一番深い印象を与えた地は、パリでも、マドリッドでもなく、このテゼだった。わたしは、テゼを一般に説明するときに、「アンチ・ディズニーランド」という表現をよく使う。年間10万人以上の若者を迎えるこの場所には、いわゆる若者を引きつけるようなものは何もないからだ。フランスの片田舎の教会、一見体育館とも思える簡素な聖堂、テント生活、シンプルな食事、そして一日3度の礼拝。そんな場所へ全世界から若者がとぎれることなく集まってくる理由はどこにあるのだろうか?

本書のオリビエ・クレマンの言葉には、その問いに答えるためのヒントが記されている。

「今日の若者たちは、福音の現実(リアリティ)、すなわち交わり(コミュニオン)についての説教や議論には関心がありません。彼らは、その交わりが本当に体験できる場所を求めているのです。それは、どんな背景や苦悩を背負った若者も例外なく受け入れられ、大切にされる場所のことです。(…)祈ることは同時に世界に対して責任を担うことなのだと示される場所のことです。わたしにとって、テゼはそのような道を誠実に模索する具体的な場所なのです。」(『テゼ—いのちの意味を求めて』本書 52頁)

「今どきの若者はね、、、」と物知り顔でいう大人達に、かみしめて欲しい言葉である。テゼは、人間が常に神の似姿であり、その渇きを真に満たすことができるのは神のみであることを、理論ではなく体験から教えてくれる。

若者がテゼでの滞在を希望するとき、ブラザー達はまず一週間の滞在を勧め、始めに一枚の紙が渡される。

 

あなたは、沈黙と祈りによって、キリストという泉へと歩むためにテゼに来ました。あなたは自分の人生に一つの意味を見つけ、生きる力を取り戻し、今生きている場所で、責任を果たすための準備をするためにここに来たのです。

 

教皇ヨハネ26世の言葉を借りればテゼは「小さな春」、希望を実体験することのできる場所である。本書の、第4、5章では、世界のテゼ共同体の日常生活や活動が具体的に紹介されている。そこでは、テゼが決して限定された一つの「場所」ではなく、一つの精神(エスプリ)であり、世界中の至る所で「絶望のないところへ希望を」もたらす小さな種として息づいていることが語られている。

バングラデシュの、劣悪極まるマイメンシン刑務所を毎週訪問するブラザー・ギヨームのエピソードは、その象徴である。

「こんな風に、ブラザー・ギヨームの歩く世界は、どこを向いても限界や悲しみや絶望に満ちています。問題は次から次へと押し寄せます。刑務所の面会室には、そんなわたしたちの世界の闇が凝縮しているようです。しかし、ブラザーが歌い出し、「さあ、あなたも歌って」と促されるとき、わたしたちが、あえて希望を引き寄せるように、と招かれるのです。どんなに闇が深くても、あえて歌うようにと。」(本書、99−100頁)

テゼが、単なる歌と礼拝の集いではなく、希望を告げる「小さな春」であり続けることの秘密が、ここに隠されている。今の時代、今の教会、今の若者達にもはや希望を持てなくなってしまった人々すべてにも、一度手に取っていただきたい本である。

(文:片山はるひ)