主よ、祈りをおしえてください(1) はじめの一歩(その1)

2010年3月19日

祈りとは何なのでしょう。魂の呼吸、神との対話、魂の飛翔…祈りは様々な言葉で表現されてきました。このコーナーでは、一人ひとりの日々の生活に祈りがしっかりと根付くことを目ざしながら、祈りを徐々に学んでいきたいと思います。祈りを学ぶことなどあるの?と思われる方も少し忍耐しておつきあいくだされば、意外な発見があるかもしれません。

自然の美しさを越えて

Kamishakuji紅葉iわたしたち日本人は自然の美しさに非常に敏感です。一枚の葉から落ちる水滴のきらめき、みずみずしい若葉からの木漏れ日、紅葉したもみじの微妙な色合いの変化など、自然が見せる瞬時の美に目をとめ、独特の方法でそれらを表現してきました。ときにはそのような自然の美や力強さそのものが崇拝の対象となり、神社・仏閣に祀られていることも珍しくありません。

けれど聖書の世界では、自然をとおし、その彼方にそれらを創られた方を見つめます。すべては、もちろん人間も、神である父が創られた世界なのです。混沌とし、闇が深淵の面にたちこめ(創世記1・2)ていたなかから、神は創造の業を始めらた、と聖書は厳かに宣言します。

自然も、動物も、そしてわたしたちも創られたものであること、神はそれらを無から引き出され、何かのご計画をもって導いておられること、それはわたしたちにとって大きな慰めではないでしょうか。わたしたちは虚無の闇のなかに、目的もなく放り出されたものではないのです。

祈りの第一歩

このことを心にとめるのが祈りの道に踏み出す最初の一歩です。2千年以上も前に既に聖書の賢人が語っているように「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認め」(知恵の書13・5)、「創られたわたし」に神が父としてのまなざしを注いでおられることを想って深く感謝することです。祈りをこのような感謝と喜びから始めましょう。感謝と喜び。たとえ今の生活がまったくそのような状況になくても、そして現実の「父」のまなざしが慈しみに満ちたものでなくても…「天の父」がわたしたちを創られた唯一の目的は、ご自分の幸福に与らせたいということなのですから。(続く)

文:中山真里 ndv