主よ祈りをおしえて下さい(6)アビラの聖テレサ(1)

2010年10月9日

 

「祈りの場所」、「祈りの時間」についてお話してきました。ところで、ここまでおつきあいくださった方はこんな疑問をいだかれるかもしれません。

 

「祈りって、何か決まった言葉があって、それを唱えることではないの?」

  

そうですね、もちろんキリスト教のなかにも、「決まった言葉の祈り」(口祷)があります。その代表的なものが、聖書のなかでイエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」と呼ばれているものです。この祈りについては後日、あらためてとりあげることにして、今回は、

  

「ところで祈りって何なの?」

 

という「初めの一歩」をお話することにしましょう。色々なかたちの祈りがあるなかで、この初めの一歩がわかれば、後はよりわかりやすくなると思います。

さて、「祈りって何」を語る際、なくてはならない人がいます。アビラのテレサ(1515~1582)というスペインの聖人です。「霊的な人々の母」と呼ばれるこの人が祈りについて語った次の言葉は、わかりやすく簡単な表現で祈りのエッセンスを示しています。

 アビラの聖テレサ

 

「念祷(祈り)とは、わたしの考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と、ただふたりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません。」
(『イエズスの聖テレジア自叙伝』東京女子カルメル会訳・中央出版社)

 

この大胆な言葉の中にある「神」という言葉を「彼(彼女)」に置き換えれば、まるで親しい者どうしの会話のようです。そして祈りとは、まさにそのようなものだとテレサは言うのです。互いに愛されていると知っている者が、ふたりだけで友情を交わし合う、それが祈りだと。ところで、親しい人と共に過ごす時間を、みなさんはどのように過ごされますか。言葉を交わす、ときに沈黙する、沈黙のなかで相手のことを思いめぐらす、笑いあったり(ときには怒ったり!)、あるいはそのまま二人で他の仲間の輪に加わったり…。このような、「わたしとあなた」との関わりが祈りのエッセンスなのです。神とわたしとの「友情の交換」です。そしてその友情を表現する様々な手段こそ、教会の長い歴史のなかで生まれてきた様々な祈りのかたちなのです。語り合う(口祷)、ときに沈黙する(念祷)、沈黙のなかで相手のことを思いめぐらす(黙想)、二人で仲間の輪に加わる(典礼)、などなど。

ここであらたな疑問が生まれるかもしれません。

 

「神様って、人間と違って目に見えないし、いったい、神様をどうして
人間のように考えることができるの?

 

しかも人間どうしの関係を神様と人間の関係にあてはめるのって、
無理があるんじゃない?」

 

 

これについては、実は反対なのです、とお答えしましょう。人間どうしの関係を神様との関わりにあてはめているのではなく、神様と人間との関係が人間どうしの関わりの基礎になっているのです。神様がご自分に似せて人間を造られた(創世記1章)というのは、交わりそのものである神様のように、人間もまた交わりへと召されているということです。ですから、わたしたちが祈りたいという思いに駆られるとき、それはわたしたちのごく自然な欲求だと言えます。祈りは魂の呼吸のようなものだと言われる所以です。

とは言え、実際、神様はわたしたちの目に見えませんし、触れることもできません。そのような神様とどのように関わっていくのか…祈りがときとして難しく感じられるひとつの理由です。この「祈りの難しさ」という難しい問題もまた、しばらく後回しにして、「祈りの初めの一歩」をもう少し続けましょう。

つづく
文:中山まりNDV