「祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」というイエスの言葉は何を意味するのでしょう。これを聞いた弟子たちは、文字どおり師の言葉に従ったかもしれません。しかし、イエスがおっしゃった意味はもっと深いところにあると思われます。「あなたの神、父は隠れておられる。だから、その父に祈るにはあなたもまた隠れなければならない」のです。隠れるとは、心を魅了するあらゆることがら、毎日の心配ごと、問題、苦労、それらにいったん戸を閉め、心を静めて父と向き合いなさい。父はあなたの心の奥底に隠れておられるのだから、あなたもまた奥まった自分の心の深みにまでおりていきなさい、イエスはそう言っておられるようです。
そしてもうひとつ大切なことがあります。わたしたちの社会では見えるものがすべてです。美しく人目をひくもの、有能で効果的なもの、力強くたくましいもの、権威や権力をもつもの。けれどわたしたちを創られた父がご覧になるのはまったく別のものです。父がご覧になりたいのは、まったくありのままの姿で手をさしだすご自分の子供です。
わたしたちは本来、とても傷つきやすく、弱いものです。神の前ではその姿のままでとどまりましょう。泣くこともよし、訴えることもよし、叫ぶこともよし、神はわたしたちが心の奥底にしまいこんだあらゆることをご存知です。「父は隠れたことを見ておられる」のですから。
隠れた神と共にとどまるとは、わたしが普段つけている重い衣装を脱ぎ捨て、ありのままの姿で神と向かいあうことです。
少し実践的に…
では祈る際に具体的にどのようにするかといえば、まず時と場所を選びましょう。心を静め(あるいは沈め)、まったく一人で子供のような心で神の前にでるためには、時間と場所が大きな要素となります。ひととき「都市のなかの観想」ということが話題となりました。都市に象徴される現代社会から隔たることなく、そのまっただ中で祈るということでしょうか。
しかし常に都市の騒音と虚飾の中で祈るというのは、人間性を無視したことのように思えます。祈るためには、とくにその最初の時期には「隠れたところにおられる父と共に隠れることのできる」時と場所が必要です。場所として教会が近くにあるなら絶好のチャンス。もしなければ家の中でもかまいません。
自分だけの小さなスペースを作って、たとえばイエスのご絵を置き、ローソクを灯したりするのはよいことです。日本の狭い家屋事情からは様々な工夫が必要かもしれませんが、できるだけ祈るための「わたしの場所」を確保してください。そこは、イエスと共に隠れた父に出会うための大切な場所です。次は時間について考えます。これも大きな課題ですね
文:中山まり ndv