主よ祈りをおしえてください(3)隠れておられる父

2010年4月4日

神のプレゼント
はじめの一歩を踏み出したわたしたちは、いよいよ祈りへと向います。ところで前回、ためらうことなく神に祈り求めましょうとお話ししましたが、神からわたしたちへの最高のプレゼントはイエスであることはまちがいありません。プレゼントという英語はラテン語のpre(前)+esse(ある)から派生した言葉です。わたしの前にある方、常にわたしと共にいてくださる方、それはインマヌエル(神はわたしたちと共に)であるイエス・キリストなのです。

隠れておられる父
そのイエスは、祈りについて次のように語っておられます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6・6)。父は隠れておられる、イエスはそうおっしゃるのです。

たしかに、神が隠れておられるというのは現代のわたしたちの日常の体験です。殺伐とした日本社会、無機質のビルの谷間を往来する人々の無表情な顔-その顔の下にどれほどの苦労や苦悩が隠されていることでしょう-、セーフティネットもなく転げ落ちていく人々、不条理な犯罪…。神がおられるなら、なぜこのような苦しみを見過ごされるのか、この問いはいつの時代でも投げかけられてきました。

N.P. N.M. Venawque etc153隠れた神という体験は既に旧約聖書の時代からありました。紀元前5世紀ごろ、第2イザヤと呼ばれる預言者は、「あなたはご自分を隠される神」(45・15)と記しています。人間にとって神は隠れた方なのです。そしてイエスご自身もそれを体験されたのではなかったでしょうか。受難を前にしたゲッセマネの園での苦悶、神から見捨てられ、呪われた者の烙印を押される十字架刑、自分を見捨てて逃げ去った弟子、心変わりをした群集、肉体と精神の苦悩、そのなかでイエスは神の沈黙を極みまで体験されたにちがいないのです。

さてこれが祈りといったいどういう関係にあるのでしょう。先ほどのイエスの言葉をもう一度見てみると、「祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」るようにとおっしゃっます。なぜなら、隠れた神に出会うにはわたしたちもまた隠れなければならないということなのです。次回はこの言葉をもう少しほりさげてみることにします。

文:中山真里  ndv