「暗夜」を照らす炎  - 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ -(8)最終回 : 日常生活の中の『暗夜』

2012年12月13日

5月から8回にわたり、片山はるひ (ノートルダム・ド・ヴィ会員)による

「暗夜」を照らす炎  - 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ-

を連載しています。なお、この講話は『危機と霊性』
(日本キリスト教団出版局、2011年)に収録されているものです。

 

第8回目(最終回)の今日は 日常生活の中の『暗夜』 をお送りします。

 

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 これまで3人の聖人における「暗夜」を見てきましたが、私たち一人一人の信仰の歩みにおいての「暗夜」を考える時、非常に大切な点を指摘しておきたいと思います。それは、「霊の暗夜、浄化は、実験室で行われる実験や、クリニックで行われる手術のようなものではない」28 ということです。すなわち、この「暗夜」、すなわち神の働きは、生活のもっとも日常的な事柄、特に人間関係の難しさ、病気、離別、などのネガティブな事柄の内に隠れているということです。神の働きは、生活全てに及び、そこでふりかかってくる様々な試練によって、我々は清められ、信仰を深められてゆくからです。 別の言葉でいうならば、すべては神のうちに存在しているがゆえに、どんな苦しみも決して無駄ではないということです。

 

  「霊の暗夜」とは、抽象的な概念ではありません。それは生々しい人間的体験です。十字架の聖ヨハネ自身の場合も、「霊の暗夜」は、彼が同じ会の修道士達にトレドの牢獄に幽閉され過酷な状況を生きざるを得なかった時のことでした。

 

  苦しみがきよめの「暗夜」となるための条件は、それを受け入れることです。なぜなら「暗夜」とは、神の罰ではなく、恵みであるからです。苦しみが「暗夜」となるかどうかは、それを受け止める自分次第となります。すなわち苦しみに対して苦い思いと反抗に終始するのか、または暗夜として受け止め、そこで神と出会うのかによるのです。

 

 大切なのは、われわれの人生に何が起こったかではなく、われわれがその起こったことをいかに受け入れ、生きたかいうこと、そして神の恵みの働きにどのように身を委ねたのかということだからです。その時、わたしたちの心の傷は、わたしたちの心の扉となり、その心の傷口から神の恵みが入ってきて、少しずつ、私たちを「古い人」から「新しい人」へと変えていってくれるのです。

 

  自ら「暗夜」を苦しみ人であったマザーは、他の誰よりも、苦しみの意味、力、実りをよく知っていた人でした。マザーが、祈りと苦しみの持つ贖いの力をどれほど信じていたかは、「病者・苦しむ人の輪」を組織したことからもよくうかがえます。マザーと共に働くことを熱望しながら病のためにその願いをかなえることのできなかったジャックリーヌ=ド=デッカーとの出会いから生まれたこの会は、今では30カ国にも及ぶ国々に広がり、数千人の病者・苦しむ人たちが、神の愛の宣教者会に結ばれています。 29マザーはジャックリーヌに次のように書き送ります。

 

 「苦しみが多くなればなるほど、十字架上のイエスにより深く似たものとなります。あなたは祈るとき、イエスに、わたしを十字架上のあの方により近く引き寄せてくださるようにと求めてください。わたしたちが、そこでひとつになるように。」30

 

おわりに

 「痛みを感じるまでに愛してください。“Love until it hurts.”」 というマザーテレサの言葉は良く知られています。ですが、この「痛み」がマザー自身の場合、どのようなスケールのものであったかは、今ようやくその全貌がわかるようになりました。一方、十字架の聖ヨハネは、「苦しみは愛する者の衣」といって、「暗夜」を旅し、私たちへの道標とも言える著作を残してくれました。

 

 「どれだけのことをしたかではないのです、どれだけの愛をこめたかです。」というマザーの言葉は、「純粋な愛の行いは、それがどんなに小さくても、教会にとっては、他の一切の業を集めたものよりさらに有益である。」31 という十字架の聖ヨハネの言葉によって意味がより明確になります。

 

 一方、リジューの聖テレーズは、「大切なのは愛だけです」と簡潔に言い残しています。テレーズの叫び、「私の召命、それは愛です。(…)母である教会の中で、私は愛となりましょう。」32 は、同時にマザーの心の叫びでもありました。そして、テレーズの祈り「(主よ)、私をご自身の愛の炎の中に引き寄せてください。わたしのうちにご自身が生き、行動なさるまでに私を密接に一致させてください。」33は、マザーテレサの祈りともなりました。

 

 「炎」とは、十字架の聖ヨハネの語彙においては、聖霊のことです。聖霊によって導かれた聖人のみが、その時代において炎となって闇を照らすことができます。なぜなら危機を乗り越えることができるのは、真の「愛」のみですが、その「愛」は感覚のレベルのものではなく、闇と苦しみの体験によって鍛えられた「愛」でなければならないからです。愛すること、信じることは、いつも甘い気持ちやなぐさめを感じることではありません。これは現在の、カルトやニューエイジ的スピリチュアルブームの感性には逆行するものです。

 また幼子の愛と信頼を生きることは、いつも慰めと幸福感に満たされて生きることではありません。むしろ、その信頼は、深ければ深いほどに、「暗夜」の体験により、浄められます。その浄めがあればこそ、愛はより純粋で深く普遍的なものとなることができるからです。ですが、このような信仰、希望、愛の理解にこそ、危機を乗り越える力があるのではないでしょうか。

 

 炎となるには、まず自ら「暗夜」を通ってゆかねばなりません。火にくべられた薪があらゆる汚れを焼き尽くして炎となってゆくように、この炎は、常に聖性へと新たに私たちを招いています。

 

この三人の聖人の生きた「暗夜」は、キリストとの一致によるそのあがないの業への参与とも言えるものでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と叫ばれたイエスへの愛がそこまでの一致へと三人を導いていったのだと言えるでしょう。この一致によって、二人のテレサとヨハネは、どんな絶望の淵にいても、神の沈黙しているかのような世界においても、信頼と希望を生きることが可能であることをその生き方で示してくれたのです。

 

 

 ゆえに、この三人の聖人の響き合う霊性は、すぐれて現代的な霊性であるといえます。この希望の霊性は、今の時代の「暗夜」の一隅を照らすために神の手で灯された炎であると言えるのではないでしょうか。

終わり

文:片山はるひ

注:

27. 『暗夜』前掲書、247頁
28.  Je veux voir Dieu, op.cit., p.818.   La nuit comme le jour illumine, op.cit., pp.32−35.
29. 和田町子『マザーテレサ』、前掲書、121−125頁
30.  同書、125頁
31. 十字架の聖ヨハネ『霊の賛歌』ドン・ボスコ社、283頁。
32. 『幼きイエスの聖テレーズ自叙伝』前掲書、289頁
33. 同書、381頁

前回までの掲載分はこちら

第1回掲載  『現代の闇』
第2回掲載  十字架の聖ヨハネ 『感覚の暗夜』
第3回掲載  十字架の聖ヨハネ  『霊の暗夜』
第4回掲載  十字架の聖ヨハネ 『愛による浄化』
第5回掲載  リジューの聖テレーズの『暗夜』
第6回掲載   リジューの聖テレーズ 『信仰の試練』
第7回掲載  マザーテレサの生涯と『暗夜』