「暗夜」を照らす炎  - 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ -(6) リジューの聖テレーズ 『信仰の試練』

2012年10月14日

5月から8回にわたり、片山はるひ (ノートルダム・ド・ヴィ会員)による

「暗夜」を照らす炎  - 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ-

を連載しています。なお、この講話は『危機と霊性』
(日本キリスト教団出版局、2011年)に収録されているものです。

 

第6回目の今日は リジューの聖テレーズ 『信仰の試練』 をお送りします。

 

N.P. N.M. Venawque etc224

 

 テレーズにとって最も深い闇の体験は、喀血し、死を覚悟したその時に始まります。深い信仰に養われて育ったこの修道女にとって、死は神との究極の出会いに他ならず、むしろ喜びでしかありませんでした。それが一瞬のうちに変化した、その時の心境を彼女は自叙伝の中で以下のように語ります。

 「あれほど喜ばしい復活節中に、イエスさまは、信仰のない人、恵みを悪用したために唯一の真の純粋な喜びの源である貴重な宝を失った人が、実際存在することを感じさせてくださいました。私の霊魂はこのうえもなく濃い闇に包まれ、あれほど甘美であった天国の思いが、もはや戦いと苦悩の種でしかなくなったのです…。この試練は、数日や数週間だけではなく、神様が決められた時まで終わらないはずで、そしてその時はまだ来ていません。」19

 その暗闇は、無神論者の論理をもって、次のように容赦無く彼女に語るのです。

「おまえは光を、この上なく甘美な香りに満ちた祖国を夢見ている。すべての美しいものの創り主を永遠に所有できると夢見ている。おまえを取り囲むこの霧の中から、いつか出られると思っている。さあ、進んでごらん、進んでごらんよ。喜んで死ぬがいい。でも死は、おまえの希望しているものを与えてはくれまい。それどころか、もっともっと深い闇、虚無の闇がそこにあるだけだろうよ。」20

 

  テレーズ自身、外から見た自分の姿とその内面との激しいコントラストを良く理解していました。なぜなら一見このような激しい誘惑や苦悩を抱えていることをうかがわせる様子は何もうかがえなかったからです。

 「私が自分の試練を誇張していると思われるかもしれません。実際、私が今年作ったいくつかの小さな詩に表れている気持ちから推察すれば、私は、信仰の幕が、ほとんど裂けそうになっている慰めに満たされた者のようにみえるでしょう。ところが…、私にとっては幕どころではなく、天にまでそそり立つ壁、星空を覆い尽くす壁なのです…。天国の幸福、神の所有を歌っても、何の喜びも感じません。信じたいと思うことを、そのまま歌っているにすぎないのですから。もちろん、ときには太陽のかすかな光線が私の暗闇を照らすこともあります。すると試練は一瞬やみますが、その後、この光線の思い出は、喜びとなる代わりに、かえってますます濃くするばかりなのです。」21自叙伝』315頁)

   この信仰の試練は死の時まで絶え間なく続き、解放されるのは、ごくまれでしかもひとときにすぎませんでした。 窓から、庭の茂みの<暗い穴>を見ながら彼女は「私の心も体も、ちょうどあのようなまっ暗い所にいます!ああ、本当に、何という闇でしょう!それでも私は平和です。」と言います。最後の言葉に頻出する「暗い穴」「トンネル」「霧」「夜」「闇」のような語彙がその試練の激しさを雄弁に物語っています。

 

「信仰の試練」の意味

 はじめはこの試練の意味がわからなかったテレーズも、次第にその意味を悟ってゆきます。この試練は、大きく分類すれば「霊の暗夜」に入るものの、すでに浄められ高い聖性に達していたテレーズにとっては、自らの浄化というよりは、一種の身代わりとしての苦しみであることを彼女自身見抜いてゆきます。それは、人々の罪を背負って十字架上で亡くなったイエスの贖罪の業への参与であるともいえるでしょう。テレーズの頭を悩ませていたのは、まさに当時の唯物論者、無神論者の論理・思想であったからです。

 「どんなに、おぞましい考えが私につきまとっているかを、もしあなたがご存じでしたら!こんなにたくさんの嘘を信じ込ませようとする悪魔の言うことを信じないように、私のためによく祈ってください。私の精神にのしかかっているのは、最もひどい唯物論者の言い分です。(…)とにかく、気の毒な不信仰者に信仰の光をかちえるために、教会の信仰から遠ざかっている全ての人々のために、私はこの大きな苦しみを捧げます。」22

 このことを悟ってから彼女は、自らを究極の愛の死へ捧げてゆきます。ですが、その愛の死とは、まさに十字架のイエスの死であり、従って絶望に近い何の慰めもない苦しみの死でした。そのことを前もって予感していたテレーズは姉達に次のように告げていました。

 「主は十字架上で、本当にひどいお苦しみのうちに亡くなられました。でも、それはかつてないほど美しい愛の死でした。人々が愛の死を見たのは、その時だけでした。(…)愛に死ぬとは妙なる衝撃のうちに死ぬことではありません。正直に申しますと、私が、今体験しているものが、それであるような気がします。」23

 以上、テレーズの「暗夜」を紹介しましたが、彼女を現代的聖人としているのは、まさにこのような体験をとっての「愛と信頼の道」であるからだと思います。そして最後にとりあげるマザー・テレサの「暗夜」は、テレーズの試練を知っていれば容易に理解できるものとなるのです。

(つづく)

文:片山はるひ

次回掲載は11月中旬の予定です。

注 :

19. 『幼きイエスの聖テレーズ自叙伝』、前掲書、p.311.
20. 同書、p.313-314
21. 同書、p.315.
22.  リジュの聖テレジア『リジュの聖テレジア 最後の会話—私はいのちに入ります』聖母の騎士社、2000年、370−371頁
23. 同書、117頁

前回までの掲載分はこちら

第1回掲載  『現代の闇』
第2回掲載  十字架の聖ヨハネ 『感覚の暗夜』
第3回掲載  十字架の聖ヨハネ  『霊の暗夜』
第4回掲載  十字架の聖ヨハネ 『愛による浄化』
第5回掲載  リジューの聖テレーズの『暗夜』