『現代人のための祈りの道 – アビラの聖テレサとともに』(2) 

2013年12月14日

例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』 

今年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行わました。

 そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介しています。

現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に

片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)

 

霊的な人々の母



 テレサがいかにその時代の悪と人々の苦しみを肌で感じ、その解決を探した人であったか、そのためにどれほどの道のりを歩き通し、多くの人々と会い、難しい人間関係を生き、難事業を成し遂げた人であったかという面を、現代の教会で、今もっと知られて欲しいと思います。それは、困難な時代の忙しい日常生活を生きる私たちにとって、彼女をより身近に感じ、頼りにして歩むことができるためです。

テレサについては、有名な「霊的な人々の母」という呼び方があります。これはローマのサンピエトロ寺院にある彼女の像に刻まれている呼称です。ただこの呼称もうっかりすると彼女を雲の上の人にまつりあげてしまう危険性があります。今の教会で「霊的な人」というと、「徳高く、霊性の深い人」というかなりの「エリート」を指す言葉だからです。それだと、テレサは一定のレベル以上の「霊的」な人だけのための母ということになってしまいます。これは本当に残念なことです。

霊魂の城を書いたテレサは、人間の霊魂の美しさに魅せられた人でした。今で言う人間の尊厳の基盤です。たとえ罪に汚れても、外からは真っ黒に見えても、内に神が住んでおられる人間の魂は水晶のように美しいということを自らの体験から語ってくれた人です。ですから、この霊的とは、自ら魂の渇きをかかえ、無意識のうちにも神を探し求める全ての人という意味にとらえるべきだと思います。そうでなければ、テレサが多くの人々にとって「母」であることにはならないからです。無神論の誘惑に陥っていた哲学者エディット・シュタインを回心させたのは、その自叙伝によってエディットに語りかけた「母」テレサだったのです。

 

「神のさすらい人」

テレサの生き生きとした姿を知るためにお勧めの本は、フランスの作家マルセル・オクレールが書いた伝記「神のさすらい人〜アビラの聖テレサ」(サン・パウロ)です。長い間絶版でしたが、最近再版されて手に入るようになりました。彼女は、テレサの著作集を全て見事なフランス語に翻訳した専門家でもあり、ユーモアたっぷりの小説のように読めるこの生き生きとした伝記はすべて史実に基づいています。

オクレールは、第二次世界大戦中、フランスがナチス・ドイツに占領されていた最も暗くつらい時期に、アビラの聖テレサの著作を日ごとの糧として生きていた人で、この伝記は彼女の聖女への恩返しのような作品です。テレサは、「世界を覆った不幸と混乱と孤独の中で、イエスの現存を教えてくれた人」、その著作により、「みことばは人となって私たちのあいだに住まわれた」という言葉が、身近な現実となった、と彼女は序文の中で語っています。

オクレールにとって、テレサは生活の友、苦しい生活の中でしっかりと手を握りしめることのできる方でした。この母は、人間を知り尽くしているからこそ、自分を理解してくれることを疑わなかったと作家は語ります。

「お鍋類の真ん中にも主はおられます」といって、テレサは毎日の生活のささいなことの中にも神をみいだすようにと彼女を励まし、戦争中、どれほどの仕事や心配事があっても、「神とともに、神のためにするなら、どんないやな仕事も軽い荷となり、未知のことにも委ねきった心で立ち向かってゆくことができる」と勇気づけたのです。創立物語の苦難は、食料難の時代を堪え忍ぶのを助けました。

オクレールは、テレサといえば脱魂のことしか考えない人達にはまったく知られていない聖女のありのままの姿、偉大な神秘家でありながら実際的な才知に恵まれた活動的女性であるテレサの現代的な姿を伝えるためにこの本を執筆したのです。

「イエスの聖テレサと1レオではなんにもなりません。でも、イエスの聖テレサと1レオと神とならなんでもできます。」神へのこのような不屈の信頼は、テレサに導かれることによって、次第に作家オクレール自身のものとなっていったのです。

(つづく)