テレサとテレーズ(2)

2015年12月11日

東京教区カトリック関町教会 テレジア祭2015の企画の一つとして
9月27日に片山はるひが『テレサとテレーズ』というテーマで講話を行いました。
その講話を10回に分けてご紹介していきます。

今回はその2回目です。

テレサとテレーズ

『テレサとテレーズ』(2)
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

勇ましさ

アビラアビラという町は、このように城壁が世界遺産になっているとても印象的な町です。なぜ城壁かというと、当時のスペインは、イスラム教徒が攻め込んで来て、激しく戦って、こっちの町は取られた、あっちの町は取り戻した、という時代でした。装飾ではなく、戦いか ら町を守るための城壁です。ですからテレサの根本的な気質として、「戦い」というものがあります。キリスト教を敵の手から守らなくてはいけない、キリストのために戦うのだと。当時の勇ましい気質が、特にテレサの中にもあります。

このアビラという町は、テレサの町です。どこに行ってもテレサの像があり、この町では「ラ・サンタ(=聖女)」というともうテレサのことです。

ここに、テレサという人の人となりを表す一つのエピソードがあります。

彼女は7歳のときに弟を捕まえて家出をします。何故家出をしたのかというと、「私はイスラム教徒のところに行って殺されたい」と言うのです。何故殺されたいのかというと、彼女は賢い子で、「死なないと神様に会えない。天国に行けない。神を見ることができない。じゃあ手っ取り早く、あっちに行って首を切ってもらえば神様に会える」ということで弟を捕まえて一緒に行きます。

アビラ2ところがあっけなくここ(写真)で叔父さんに見つかり、連れ戻されます。そのとき彼女は叫びます。「私は神様に会いたい」……これが彼女の生涯を貫く叫びです。

 

 

社交性豊かな人柄

彼女は、修道院に入って、お祈りをよくし、みんなの模範といわれるほど良い修道女になって、大病も乗り越えていくのですが、でもその心は全部神のものではなかったということなのです。どういうことかというと、テレサは、伝え聞くところによると、非常に美しかったそうです。それで言い寄る男たちがたくさんいて、彼らとの付き合いもまんざらではなかったのだそうです。それが小さいテレーズと違うところですね。テレサのほうは男性たちとお付き合いをするのも結構好きだったという、非常に世俗的なものを楽しんでいました。

エンカルナシオンこの写真は彼女が最初に入ったエンカルナシオン、御托身修道会です。改革する前の非常に大きな修道院で、今は改革されたテレサのカルメル会の修道院になっています。

ここには、テレサのサロン、つまり面談室があって、そこにアビラの名士が押し掛けたのです。「あの美しくチャーミングなシスターと霊的な会話をしたい」ということで、たくさんの人たちが押し掛け、テレサもまんざらではなかったようです。しかもその人たちはお金を落としてくれということで、修道院としても、「どんどん呼んでちょうだい」というほど。そういう生活を送っていたのです。

 

回心

このときのテレサは言います。「私の魂はちょっと死んでいた」。というのは、神にすべてを賭けて入ったはずなのに、世俗の喜びに心を半分取られている。「どっちつかずだった」というのです。これが彼女の苦しみになります。

そこにイエス自身が介入してきます。不思議なことに、ときには怖い顔が現れたり、またあるときには、大きなガマガエルが面談室に現れて向かってきたりしたらしいのです。それは、神様からの「お前に満足していない」というサインだということです。この辺は面白いエピソードがいろいろあります。1554年のことです。

そして、ついに杭に繋がれて鞭打たれて血まみれになっているイエスの像を見て、(それまでもずっと見ていたはずで、これが神の恵みだと思うのですが)このとき、テレサは「自分の生き方は違った」と思うのです。「このように血を流しながら自分を救ってくださったその神に、私は何をしてきたのか?」と。

彼女は別に悪い人ではなかったのですが、ただ、修道女として自分の心のすべてを神に与えずに、自分なりの楽しみというところで留まっていたのです。そこから決定的に神のほうに向き直ります。

その時、テレサはアウグスティヌスの『告白』という書を読みます。アウグスティヌスという人も、やはりいろいろな体験を経て、結局、自分が探していた神は自分の内側にいて、自分の心をすべて与えるのを待っていたのだということがわかってきた方です。

ここから彼女は新しい人生を歩み始めます。これが何と39歳のときでした。彼女は20歳のときに修道院に入っています。ですから20年間、どっちつかずであったということに気づき、そのことに後ですごく苦しみます。テレサの良いところは、テレーズよりも、人間的な、さまざまな誘惑を経験して、そしてそれを後悔した人であるといえるかもしれません。転んでは起き、転んでは起き、ということをした人なのです。

つづく

〔2015年9月27日 関町教会聖堂にて〕

まとめ=関町教会広報部