『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレーズ(テレジア)の霊性(9)

2015年8月4日

2014年9月28日(日)東京教区 関町教会において
ノートルダム・ド・ヴィ会員の 片山はるひ が
リジューの聖テレーズについての講話を行いました。
その講話を数回に分けてご紹介して行きます。

今回はその9回目です。

『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレジアの霊性
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

 

13.十字架上のイエスの死

病室テレーズの臨終は十字架のイエスの死です。周りのシスターたちからはテレーズは素敵だなと思われていたこともあり、テレーズの死は白鳥の死のように微笑みのうちにすっと逝くのよ、と「あなたはいつ死ぬのかしら、あの祝日かしら、次の祝日かしら」というようなことが言われていたわけです。テレーズは完璧な人なので「私の死ぬ日が祝日です」と言っていたのですが、その中で彼女は言うのです。「私が苦しんで苦しんで死んでも、心配なさらないでください。イエスは十字架の上で苦しんで亡くなりました。それはいちばん美しい愛の死でした」

実際にテレーズはそのように亡くなります。お姉さんのポリーヌは院長でしたが、いたたまれなくなって、近くにあったイエスさまのご像の前で「私の妹が絶望のうちに死なないようにしてください」と祈ったそうです。

 

長いあいだあまり知られていなかったことは、テレーズが非常に現代的な聖人であるということです。彼女がもしすばらしい人でも、「天国…しあわせ…」で亡くなったら、私たちにとっては、「19世紀は良かったですね」で終わってしまうところだっただろうと思います。でも、今の日本で私たちの周りを見るとき、世の中は死んだら何も無いと思う時代です。私たち自身も何かあったとき、死に直面していろいろな闇を感じるときに、そのような思いになるものです。

私自身もあります。たとえば、周りの身近な人間が病に倒れ、思いがけない死があったりしたときに、「なぜ」と。テレジアはそこを通ったのです。ですから現代の無神論者、神を信じない、「この世の先は闇だ」と言う人たちに非常に訴えかける人なのです。ですからフランスでも、「自分なんかだめだ、この世界でもうやっていけない」と思う、たとえば死刑囚というような人たちの中で、テレジアの著作を読んで、神の愛を発見していく人たちがたくさんいます。というのは、絶望することはできないということを、テレジアが自分の生涯をかけて伝えてくれているからです。

 

のくらいトンネルの中を旅した者しか、この暗さはわかりません。

ときには、太陽のかすかな光線が私の暗闇を照らすこともあります。すると試練は一瞬やみますが、この光線の思い出は、喜びとなるかわりに、かえって闇をますます濃くするばかりなのです。主よ、私はあなたが望まれる限り、いつまでも苦悩のパンを食べることをお受けします。(自叙伝 311~312頁)

 

ただ、彼女の中で愛は生き生きとしています。だからイエスに向かっての祈りです。でも、喜びはないのです。

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♪試練のさなか 身をゆだねて

テレジア歌う 「神の恵み」と

 

この歌詞の「神の恵み」とは、テレジアのいちばん有名な言葉のひとつです。フランス語で“トゥ・テ・グラス”というのですが、「すべては恵み」ということです。この信仰の闇のことを意味しています。

そして24歳で亡くなります。

「私は死ぬのではありません。命に入るのです」 

これもテレジアの言葉で、信仰の喜びはないけれども信仰そのものは生きていたのです。

 

ところで、なぜテレジアの写真がいっぱいあるかというと、セリーヌという彼女のすぐ上のお姉さんが男勝りな人でカメラマニアだったのです。カルメル会に入るときにカメラの器具一式を背負って入ったほどです。だから当時の写真がこんなに残っているのはカメラマニアだったお姉さんのおかげです。ただ当時のカメラというのは30分間同じ姿勢をして待っていないと撮れないものでした。それで、もともとテレジアはとても表情豊かなユーモアのある人でしたが緊張した写真になってしまっているのは、ずっとポーズをとっていなければならなかったからです。

つづく