『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』より抜粋 :第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) 第8回

2013年8月14日

ノートルダム・ド・ヴィの創立者 幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の著書『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』 の中から、第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) の日本語訳を2013年1月より10回に渡って連載しています。

 

『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』

p.116-126 第8章 テレサ的精神 (Espirt thérèsien )

  

主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。

私は情熱の全てをかけて、主に仕える。

(第7回からの続き)
  以上のように、聖テレサの望みとその活動について述べてきたのは、彼女の霊的教えをよりよく理解するためである。カルメル会の改革と、霊的教えは、共に聖女の魂のほとばしりであり、テレサ的精神の息吹の実りである。この二つは、共に互いを補い、照らし合うものである。この比較から、聖テレサの霊的教えの方向性と特徴についてより明確な光が与えられるのである。

 

 1.テレサは、まず念祷と観想の道を通して、完徳の頂上へと人々を導こうとした。それは、改革カルメルの組織、及びテレサの著作から明らかである。彼女と彼女に従う人々にとって他の道はない。みなが観想者とならなければならない。

 

 2.この観想者は、みな、使徒にならねばならない。聖テレサは、念祷の道と、神との親しさのみを学ぼうと望む人を、自分の弟子とは認めない。なぜなら、彼女はそれらの人々に、イエス・キリストを超えて、キリストの神秘体である教会を発見させ、その教会に仕えるようにと招くからである。変容的一致、または霊的婚姻は、霊的母性において開花する。テレサは、神との一致のもたらす実りを、もっとも大切な目的として強調する。上記における著作からの引用や、彼女の仕事のすべてがこのことを豊かに論証している。

 テレサの最も有名な娘である、幼きイエスの聖テレーズは、「教会の心臓の中で愛となる」ことを悟った時に、自らの召命を発見したと述べている。

 

 3. この実りは、祈りによる実りである。祈りは、犠牲に養われた完全なものであるがゆえに力あるものとなる。教会のため、父なる神への祈りを捧げた後、イエスは、ゲッセマネの園へ赴く。そこで、限りない清さそのものである方が、罪の激しい苦悩へと身を委ねた。この世の全ての罪の重さに耐えかねて地に伏し、血の汗を流して苦悶のうちに祈りつつ、我々を罪から救う。その苦しみにより、使徒と人々のための一致の祈りが成し遂げられたのだった。

 カルメルの父祖、エリアもまた、イスラエルの民の罪の重みに耐えかね、ホレブ山の洞窟で苦しみ嘆いて言った。

 「わたしは、万軍の神、主に情熱をかけて仕えてきました。イスラエルの人々は、あなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(列王記19−14)

  テレサもまた、アビラの聖ヨゼフ修道院の祈祷所や、隠遁所で、世の罪を思い、嘆き、涙していたのだった。

「わたしは、これほど多くの人々の魂の亡びを思い、あまりにもうちひしがれておりましたので、どうしてのよいのか全くわかりませんでした。そして、隠遁所にこもっては、涙に暮れていました。」(『創立史』、1章−7、21−22頁)

   

  聖テレサとその娘達は、教会のためにゲッセマネでのイエスの祈りを続けてゆく。観想生活とその霊性は、キリストの司祭職の役割を続けてゆくようにと、彼女たちを導いてゆく。その召命の恵みに忠実であることにより、彼女たちは、罪の重荷を負いつつも愛の炎に焼き尽くされ浄められて、完徳へと歩みをすすめる。そして自らこの世の罪を背負った神の子羊のかたわらで、浄めつつ救いをもたらす祈り、苦しみと愛に満ちた祈りを共に唱えることを学ぶのである。

  それゆえ、幼きイエスの聖テレーズは、生涯の終わりに、神の慈しみに満たされながらも、信仰の試練という苦しみの誘惑を受け、現代の不信仰という苦悩のパンの苦みを身を以て味わいつくしたのである。

  このような観想的祈りこそが、何よりも実りをもたらす祈りであり、テレサ的使徒職の初めの形態、テレサ的霊性の初めの目的なのである。

つづく
日本語訳:片山はるひ
(ノートルダム・ド・ヴィ)