5月から8回にわたり、片山はるひ (ノートルダム・ド・ヴィ会員)による
「暗夜」を照らす炎 - 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ-
を連載しています。なお、この講話は『危機と霊性』
(日本キリスト教団出版局、2011年)に収録されているものです。
第3回目の今日は 十字架の聖ヨハネ 『霊の暗夜』 をお送りします。
「感覚の暗夜」は、確かに「恵みの時」であり、それ自体は喜ぶべき進歩です。この「暗夜」は、個人差はあるものの比較的長く続きます。それは、実は次に来たるべき「霊の暗夜」すなわち最終的かつ徹底的な浄化への準備にすぎません。
なぜなら、人が神との一致に向かって歩むならば、「霊魂の霊的な部分と感覚的な部分は余すところなく浄化されねばならない」からで、「一方の浄化がなければ、もう一方の浄化も決して完全には、行われない。感覚にとって効果ある浄化は、霊の浄化が本格的に始まるときのこと。」8 だからです。植物にたとえるなら、「感覚の暗夜」は、枝先を切ることはできましたが、まだ執着、霊的傲慢などの罪の根は、魂の奥深くに潜んでおり、いつでも芽を出してくるからです。
カルメル会士、尊者幼きイエスのマリー・エウジェヌ師は、この「霊の暗夜」をイエスのゲッセマネのドラマと比較します。9 なぜなら、ゲッセマネにおいて、イエスのうちで神性と人類のすべての罪が激突した時のドラマが、その激しさや規模は比べものにならなくとも、一人の人間のうちで再び繰り広げられるからです。それは、いかに浄められたとはいえ、神の神性の清さと比べれば汚れでしかない人間の内に、神が侵入してくることであり、魂の不適応という障害による、コントラストと対立のドラマです。この最終的な浄化により、始めて原罪の結果であるところの傾向や執着、不完全な習性からの根本的浄化が成し遂げられ、そこから抜け出た人は聖性へと導かれてゆくわけです。
十字架の聖ヨハネは、『暗夜』の第二部、六,七章において、この「霊の暗夜」にいる人の感じる苦しみについて克明に描写します。その比類亡きリアリズムは、まさに彼自身がこの「暗夜」を経験したことを雄弁に物語っています。
「この痛み苦しむ霊魂がここで何よりも辛く感じることは、明らかに、神が自分を見捨て、自分を憎み、闇の中に投げ込んでしまわれたと思えることである。神が自分を見捨ててしまわれたと考えることは、霊魂にとって非常に重大なこと、また、この上ない苦しみである。」10
また、
「真実、霊魂は、死の影や、死のうめき声や、地獄の苦しみなどを痛切に実感する。自分は神なしに居るのだ、罰せられ、棄てられ、そして自分は神にふさわしくないものになったのだと感じる。(中略)そして、さらには、それがもう永遠にわたってのことのように、霊魂には、思える。」11
これはまさに、ゲッセマネのキリストの苦しみへの参与であり、ヨハネは、詩編やヨブ、エレミアなどの神への叫び、嘆きの箇所を数多く引用しつつ、この例えようもない苦しみを描写している。だが、ここで決して忘れてはならないことは、このような浄化の苦しみは、神からの罰ではなく、むしろ大いなる恵みであって、それは人を根本から聖化しようとする神の愛の業に他ならないという点です。
(つづく)
文:片山はるひ
次回掲載は8月中旬の予定です。
注:
8.十字架の聖ヨハネ『暗夜』ドン・ボスコ社、1987年(2010年第4刷) p.136.
9.Je veux voir Dieu, op.cit., pp.758-760.
10.十字架の聖ヨハネ『暗夜』ドン・ボスコ社、1987年(2010年第4刷)p.151.
11.同書、p.152.
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