カルメルの霊性 三位一体のエリザベット 死への旅の同伴者

2011年11月8日

三位一体のエリザベット  死への旅の同伴者

エリザベト

伊従 信子

エリザベットが福者にあげられた時、聖女が生前書き残したすべてのメモ、日記、手紙、黙想ノートなどは三巻の本にまとめられ、Cerf社から出版されました。通読して、深く印象付けられたのは聖女が書き残した頁のどこを切り取っても、「神の現存」が浮かび上がってくることでした。メモ・日記・手紙などからの引用を「神の現存」の実践のために一冊の本『いのちの泉へ』(ドン・ボスコ社)にまとめてみました。すると今度はエリザベットはどのような状況でその言葉を語り、書き残していたのかに関心が寄せられました。そのような要望から生まれたのが、『あかつきより神を求めて』(ドン・ボスコ社)です。聖女が生きた言葉をできるだけ取り入れたエリザベット二六年の一生を紹介した略伝です。黙想ノート類(<信仰における天国>、<栄光の賛美の最後の黙想>、<崇高な者に呼ばれています>、<愛されるままに>うち最後の二編は手紙)は、フランス語では『三位一体のエリザベットの霊的教説』と題する一巻にまとめられていますが、日本語訳では『光、愛、いのちへ』(ドン・ボスコ社)として出版されています。

これらのエリザベットの生きた言葉(生きられた言葉)から、今回は、十一月が死者の月ですので、死の切り口から出てくる「神の現存」を紹介したいと思います。

 

死者と同じ主とのかかわり

エリザベットの書き残した頁には、死者は「至福直観の光のうちに神の栄光を受けている人々」と表現されています。至福直観を受けている、神の栄光に与っている人々、神との一致に至っている方々。エリザベットの関心は、彼らを満たしている同じ方が私のうちにもおられるという現実、神の現存です。なんという神秘でしょう!エリザベットはこの事実に驚き、この事実を大切に生きようとしました。

「天国は、私たちのうちにあります。なぜなら、至福直観の光のうちに栄光を受けている人々を満たしてくださる同じ方が、信仰と神秘のうちにこの地上でご自分をお与えくださるからです。私は地上に天国を見出しました。天国、それは神ご自身であり、神は私のうちにおられるのです。」        『いのちの泉へ』17,18p 

それならば、その方と深くかかわって、親しく生きましょう。すでにこの地上で、エリザベット自身この神秘に深く浸って生きました。でも、自分だけにとどめておくことはできません。できるだけ多くの人に知らせたいと聖女は思いました。

でも、二一世紀の若者たちは、はたしてエリザベットの言葉に耳をかすでしょうか。「天国の幸福なんて私、別に求めません」と言っていた学生を思い出します。これだけ物が豊か、新しい製品が絶えず出回り、止まることを知らない出来事、事件のなかで暮らす若者にとって、変化する社会、しかもその変化はさらに加速されていく社会の将来、そんな不確実な将来より、「今」を確かに生きたいということなのでしょうか。このような若者たちにもエリザベットは自分が確信したこの生き方、「永遠に変わることのないその方はあなたのうちに住まわれているのです」とのメッセージを提供します。

「天国の人達と同じように神が私のものであるとはすばらしいことだとお思いになりませんか。私たちは決して主から離れることなく、主から心をそらせてはなりません。私がすっかり主のものであり、主に導かれるままになれますようにどうぞよく祈ってください。」                    『いのちの泉へ』19p

天国の人々、天国で神の光栄のうちにすでにある人々と同じ神が、私のうちに住まっておられます、それはなんということでしょう。そのためには私たちの心を内に住まわれる主からそらさないようにしなければなりません。私たちはこの地上で天国にいる人々と同じように主とのかかわりを生きるように呼ばれているのですから。

 

主とのかかわりはこの地上において進行状態

主はご自分がおられる所に私たちもともにいることを望んでおられます。この神の望みはヨハネ福音書にはっきり記されています(ヨハネ17・24)。しかし、それは単に永遠のみ国においてだけではありません。この地上の時からすでに実現されていることをエリザベットは強調します(『光、愛、いのちへ』9p)。というのも、永遠のいのちは、この世からすでに始まっているのですから。洗礼の恵みとして受けた神のいのち、永遠のいのちはすでに私たちのうちにあり、死をもって始まるのではありません。では、違いはどこにあるのでしょう。その違いはこの地上においては、ただそれが絶えず進行の状態にあるということだけです。信仰のうちに主とのかかわりは死まで深まり続きます。

「その決定的瞬間(死)が私たちに訪れるとき、神が私たちを呼ばれるそのときの状態に私たちは永遠に留まるのであり、そのときの恵みの度合いは、まさしく私たちの栄光の尺度となるのです。」
 『いのちの泉へ』113p 

それですから、私たちが日々の生活において、「主とのかかわり」を常に深めて生きていくことは大切なことなのです。この重要性を熟知するエリザベットは、それゆえ折にふれて、神の現存「私のうちに住まわれる神」について人々に話していました。まだ若いエリザベットは、不治の病、と少なくとも当時言われていたアジソン病にかかり、胃・腸のひどい障害・嘔吐、そしてきわめて激しい衰弱に襲われるようになりました。日増しに体が中から崩れるのを感じると、「死」に関して手紙・黙想ノートに書き残しています。

 

「・・・・・・<死の神>が鎌で刈り入れをしているのを描いた画を見たことがありますか。それは今の私の状態です。あの画に描かれているように、今、その<死の神>が私を破滅させていくのを感じます。これは、本性にとって辛いことです。もしこの思いに留まっていたらきっと苦しみに打ちひしがれてしまうに違いありません。これは人間の思いです。それで私の魂のまなざしをすぐに信仰の光のもとに開きます。」
『あかつきより神を求めて』132p

本性にとって辛い死への旅の苦しみに打ちひしがれてしまうことなく、エリザベットが心のまなざしを開いた信仰の光に私たちもまなざしをむけてみましょう。

 

死への旅の同伴者

「天国は父の家です。私たちの天国への帰還は、ちょうど愛されている子がしばしの流たくの後、家へ帰るのを待ちわびられているようなものです。その旅路の伴侶をほかならぬ主ご自身が引き受けてくださるのです。心のなかでその主とともに生きてください。主の現存のうちに潜心してください。」
『いのちの泉へ』114p(『手紙』295)

「小さな病室の孤独の中で私がどれほど幸福かわかっていただけたらいいのですが。主は常にそこにおられ、昼も夜も心と心をひとつにして生きております。・・・・永遠への準備をしましょう。主とともに生きましょう。主のみがこの大きな移行に際して、私たちに付き添い助けてくださることができるのですから。」
母への手紙『いのちの泉へ』114p

最近、死へと向かう若者の孤独が話題になっています。死と向かい合う孤独感、これだけでしたら別にどこにも、どの時代にも共通し、取り立てて言うことはないでしょう。何が違うかと言えば「死にたい、でも一人ではいや」とパソコンの<自殺サイト>で知りあう見ず知らずの者が一緒に自らの命を絶つ。確かに、少なくとも外見的には「誰かと一緒」の死への旅です。非常に不思議な現象です。一人で死ぬのは怖い、寂しいと時間と場所だけを共有する未知の旅連れということです。

そんな人々へも届けたいエリザベットのメッセージ。死への孤独な旅において私たちに同伴してくださる方、同伴できるただ一人の方、その方は現在「私のうちに住まっておられる神」なのです。苦しみのうちに死を待つ人にとってどんなに慰めとなる言葉でしょうか。まだ若い娘に先立たれる母親の苦しみをエリザベットは思い、「今まで自分が親しくしていた<私のうちに住まわれる方>が一緒に旅してくださること」を告げます。それと同時に、自分の亡き後、母がこの主の現存のうちに生きることを願い祈っている姿が手紙からにじみ出ています。それはそのまま私たち一人ひとりへの聖女のメッセージでもあるのです。「主のみがこの大きな移行にあたって私たちに付き添い助けてくださることができるのです。」「ですから、心の中でその主とともに生きてください、潜心してください。」

 

赦すために「私のうちに住まわれる神」

「私たちの前に立って裁くために神は来られるのではなく、魂が体を離れると、一生を通して私のうちに住まわれ、ともにいてくださったにもかかわらず顔を合わせて正視できなかったその方を、自分のうちにベールなしで見ることができるのです。このことは私の考えではなく、神学も教えることです。私たちを裁かれるその方が、私たちをいつもみじめさから救い出し、赦すために私たちのうちに住まわれていることを思い出すと本当に慰めになります。<神はキリストに血を流させ、信じる人をその恵みにより、無償で正しい者とされるのです>(ロマ3・24)というパウロのことばもそれを裏づけます。」                  
『いのちの泉へ』113p (『手紙』238)

死を前にして、自分の人生、それまでの生き方への悔いを痛切に感じ、神への不忠実を思うとき、神の裁きをおそれるかもしれません。でも、私たちを裁かれるその方が、私たちをいつもみじめさから救い出し、赦すために「私のうちに住まわれている」ことをエリザベットは強調します。父の愛の証しとして私たち一人ひとりを救うために来られたイエス・キリストを信じ、母親の腕にまどろむ子供の委託のうちにこの地上で主とのかかわりを深めて生きることを勧めています。

「もし私が主と向かい合うなら、あらゆる自分の不忠実にかかわらず、子供が母親の腕でまどろむように、主の腕の中に身を委ねるでしょう。私たちを裁かれる方は、すでに私たちのうちにお住まいのその方以外の誰でもないのです。主は死へのこの苦しい移行を助けてくださる旅の同伴者となってくださるのです。」
『いのちの泉へ』112p(『手紙』 263)