「神はわたしのうちに、わたしは神のうちに」 11月死者の月にあたって(2)
# 死への旅の同伴者
「天国は父の家です。わたしたちの天国への帰還は、ちょうど愛されている子がしばしの流たくの後、家へ帰るのを待ちわびられているようなものです。その旅路の伴侶をほかならぬ主ご自身が引き受けてくださるのです。心のなかでその主とともに生きてください。主の現存のうちに潜心してください。」 『いのちの泉へ』114p
「小さな病室の孤独の中で私がどれほど幸福かわかっていただけたらいいのですが。主は常にそこにおられ、昼も夜も心と心をひとつにして生きております。・・・・永遠への準備をしましょう。主とともに生きましょう。主のみがこの大きな移行に際して、わたしたちに付き添い助けてくださることができるのですから。」 母への手紙 『いのちの泉へ』114p
最近、死へと向かう若者の孤独が話題になっています。死と向かい合う孤独感、これだけでしたら別にどこにも、どの時代にも共通し、取り立てて言うことはないでしょう。何が違うかと言えば「死にたい、でも一人ではいや」とパソコンの<自殺サイト>で知りあう見ず知らずの者が一緒に自らの命を絶つ。確かに、少なくとも外見的には「誰かと一緒」の死への旅です。非常に不思議な現象です。一人で死ぬのは怖い、寂しいと時間と場所だけを共有する未知の旅連れということです。
そんな人々へも届けたいエリザベットのメッセージ。死への孤独な旅においてわたしたちに同伴してくださる方、同伴できるただ一人の方、その方は現在「わたしのうちに住まっておられる神」なのです。苦しみのうちに死を待つ人にとってどんなに慰めとなる言葉でしょうか。まだ若い娘に先立たれる母親の苦しみをエリザベットは思い、「今まで自分が親しくしていた<わたしのうちに住まわれる方>が一緒に旅してくださること」を告げます。それと同時に、自分の亡き後、母がこの主の現存のうちに生きることを願い祈っている姿が手紙からにじみ出ています。それはそのままわたしたち一人ひとりへの聖女のメッセージでもあるのです。「主のみがこの大きな移行にあたってわたしたちに付き添い助けてくださることができるのです。」「ですから、心の中でその主とともに生きてください、潜心してください。」
# 赦すために「わたしのうちに住まわれる神」
「わたしたちの前に立って裁くために神は来られるのではなく、魂が体を離れると、一生を通してわたしのうちに住まわれ、ともにいてくださったにもかかわらず顔を合わせて正視できなかったその方を、自分のうちにベールなしで見ることができるのです。このことはわたしの考えではなく、神学も教えることです。わたしたちを裁かれるその方が、わたしたちをいつもみじめさから救い出し、赦すためにわたしたちのうちに住まわれていることを思い出すと本当に慰めになります。<神はキリストに血を流させ、信じる人をその恵みにより、無償で正しい者とされるのです>(ロマ3・24)というパウロのことばもそれを裏づけます。」 『いのちの泉へ』113p
死を前にして、自分の人生、それまでの生き方への悔いを痛切に感じ、神への不忠実を思うとき、神の裁きをおそれるかもしれません。でも、わたしたちを裁かれるその方が、わたしたちをいつもみじめさから救い出し、赦すために「わたしのうちに住まわれている」ことをエリザベットは強調します。父の愛の証しとしてわたしたち一人ひとりを救うために来られたイエス・キリストを信じ、母親の腕にまどろむ子供の委託のうちにこの地上で主とのかかわりを深めて生きることを勧めています。
「もしわたしが主と向かい合うなら、あらゆる自分の不忠実にかかわらず、子供が母親の腕でまどろむように、主の腕の中に身を委ねるでしょう。わたしたちを裁かれる方は、すでにわたしたちのうちにお住まいのその方以外の誰でもないのです。主は死へのこの苦しい移行を助けてくださる旅の同伴者となってくださるのです。」 『いのちの泉へ』112p
おわり
文:伊従信子