カルメルの霊性 三位一体のエリザベット(4)「神はわたしのうちに、わたしは神のうちに」

2010年11月6日

elisa

「神はわたしのうちに、わたしは神のうちに」 11月死者の月にあたって(1)

エリザベットが福者にあげられた時、聖女が生前書き残したすべてのメモ、日記、手紙、黙想ノートなどは三巻の本にまとめられています。通読して、深く印象付けられるのは聖女が書き残した頁のどこを切り取っても、「神の現存」が浮かび上がってくることでした。メモ・日記・手紙などからの引用を「神の現存」の実践のために一冊の本『いのちの泉へ』(ドン・ボスコ社)にまとめてみました。すると今度はエリザベットはどのような状況でその言葉を語り、書き残していたのかに関心が寄せられました。そのような要望から生まれたのが、『あかつきより神を求めて』(ドン・ボスコ社)です。聖女が生きた言葉をできるだけ取り入れたエリザベット二六年の一生を紹介しました。黙想ノート類(<信仰における天国>、<栄光の賛美の最後の黙想>、<崇高な者に呼ばれています>、<愛されるままに>うち最後の二編は手紙)は、フランス語では『三位一体のエリザベットの霊的教説』と題する一巻にまとめられていますが、日本語訳では『光、愛、いのちへ』
(ドン・ボスコ社)として出版されています。

これらのエリザベットの生きた言葉(生きられた言葉)から、今回は、十一月が死者の月ですので、死の切り口で「神の現存」を紹介したいと思います。

# 死者と同じ主とのかかわり

エリザベットの書き残した頁には、死者は「至福直観の光のうちに神の栄光を受けている人々」と表現されています。至福直観を受けている、神の栄光に与っている人々、神との一致に至っている方々。エリザベットの関心は、彼らを満たしている同じ方がわたしのうちにもおられるという現実、神の現存です。なんという神秘でしょう!エリザベットはこの事実に驚き、この事実を大切に生きようとしました。

「天国は、わたしたちのうちにあります。なぜなら、至福直観の光のうちに栄光を受けている人々を満たしてくださる同じ方が、信仰と神秘のうちにこの地上でご自分をお与えくださるからです。わたしは地上に天国を見出しました。天国、それは神ご自身であり、神はわたしのうちにおられるのです。」 『いのちの泉へ』17,18p 

それならば、その方と深くかかわって、親しく生きましょう。すでにこの地上で、エリザベット自身この神秘に深く浸って生きました。でも、自分だけにとどめておくことはできません。できるだけ多くの人に知らせたいと思いました。

でも、二一世紀の若者たちは、はたしてエリザベットの言葉に耳を傾けるでしょうか。「天国の幸福なんてわたしは別に求めません」と言っていた学生を思い出します。これだけ物が豊か、新しい製品が絶えず出回り、止まることを知らない出来事、事件のなかで暮らす若者にとって、変化する社会、しかもその変化はさらに加速されていく社会の将来、そんな不確実な将来より、「今」を確かに生きたいということなのでしょうか。このような若者たちにもエリザベットは自分が確信したこの生き方、「永遠に変わることのないその方はあなたのうちに住まわれているのです」とのメッセージを提供します。

図3

「天国の人達と同じように神がわたしのものであるとはすばらしいことだとお思いになりませんか。わたしたちは決して主から離れることなく、主から心をそらせてはなりません。わたしがすっかり主のものであり、主に導かれるままになれますようにどうぞよく祈ってください。」 『いのちの泉へ』19p

天国の人々、天国で神の光栄のうちにすでにある人々と同じ神が、わたしのうちに住まっておられます、それはなんということでしょう。そのためにはわたしたちの心を内に住まわれる主からそらさないようにしなければなりません。わたしたちはこの地上で天国にいる人々と同じように主とのかかわりを生きるように呼ばれているのですから。

# 主とのかかわりはこの地上において進行中

主はご自分がおられる所にわたしたちもともにいることを望んでおられます。この神の望みはヨハネ福音書にはっきり記されています(ヨハネ17・24)。しかし、それは単に永遠のみ国においてだけではありません。この地上の時からすでに実現されていることをエリザベットは強調します(『光、愛、いのちへ』9p)。というのも、永遠のいのちは、この世からすでにはじまっているのですから。洗礼の恵みとして受けた神のいのち、永遠のいのちはすでにわたしたちのうちにあり、死をもってはじまるのではありません。では、違いはどこにあるのでしょう。その違いはこの地上においては、ただそれが絶えず進行中であるということだけです。信仰のうちに主とのかかわりは死の時まで深まり続きます。

「その決定的瞬間(死)がわたしたちに訪れるとき、神がわたしたちを呼ばれるそのときの状態にわたしたちは永遠に留まるのであり、そのときの恵みの度合いは、まさしくわたしたちの栄光の尺度となるのです。」 『いのちの泉へ』113p 

それですから、わたしたちが日々の生活において、「主とのかかわり」を常に深めて生きていくことは大切なことなのです。この重要性を熟知するエリザベットは、それゆえ折にふれて、神の現存「わたしのうちに住まわれる神」について人々に話していました。まだ若いエリザベットは、不治の病、と少なくとも当時言われていたアジソン病にかかり、胃・腸のひどい障害・嘔吐、そしてきわめて激しい衰弱に襲われるようになりました。日増しに体が中から崩れるのを感じると、「死」に関して手紙・黙想ノートに書き残しています。 

「・・・・・・<死の神>が鎌で刈り入れをしているのを描いた画を見たことがありますか。それは今のわたしの状態です。あの画に描かれているように、今、その<死の神>がわたしを破滅させていくのを感じます。これは、本性にとって辛いことです。もしこの思いに留まっていたらきっと苦しみに打ちひしがれてしまうに違いありません。これは人間の思いです。それでわたしの魂のまなざしをすぐに信仰の光のもとに開きます。」
『あかつきより神を求めて』132p

人間の本性にとって辛い死への旅の苦しみに打ちひしがれてしまうことなく、エリザベットが心のまなざしを開いた信仰の光にわたしたちもまなざしを向けてみましょう。

   
つづく
文:伊従 信子