三位一体のエリザベット(3) 希望を生きる(前半)

2016年5月20日

2010年に掲載しました福者三位一体のエリザベットを再掲載しています。今回は第5回目 執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 伊従信子さんです。

※今年の3月3日にバチカンにおいて教皇フランシスコは、福者三位一体のエリザベットを列聖すると発表されました。列聖式の日取りが決まりましたら、このHPでもお知らせ致します。

 

カルメル会入会前のエリザベット

エリザベットは初聖体のときに、「エリザベットとは<神の家>」と自分の名の神秘を知ってからは、「私は神のうちに、神は私にうちに」住まわれるという神秘を子供ながらに深めていきました。
もちろん、神秘ですから理解することはできません。けれども信じ、さらに深く信じるように生きました。今回はいろいろな日常生活においてどのように神に希望をおいて生きていたのか具体的に見てみてみたいと思います。

 

苦しみ、混乱しているとき

エリザベットは神の現存を深めていく過程において、カルメル会修道院へ入会したいと望むようになりました。しかし、母親は「二十一歳になるまでは絶対に入会を許さない」と強く反対しました。それだけではなく娘がその間カルメル会の修道女と会うことも禁じました。

エリザベットはまだ幼い時、父をなくし、母の手で育てられました。ですから母親にしてみれば、ピアニストとして才能があり、しかも魅力的で人々から愛されている娘が修道院に入ることは、確かに理解しがたくまた受け入れがたかったのでしょう。「21歳まで入会を待つように」と返事した母親には、時間がエリザベットの心を変えてくれることへの期待がありました。しかし、エリザベットの確固とした決心は揺らぎませんでした。「その歳」が近づくにつれ、母の心は動揺し、母と娘の対立は厳しさを増しました。エリザベットの将来は暗礁に乗り上げたかのようでした。こうしたときを経て、エリザベットは次に様な手紙を書きました。エリザベット22歳のときです。

「私はまだ若いのですが、時々ずいぶん苦しみました。すべてが混乱していたとき、<現在>は非常につらく、<未来>はなお暗く感じられたとき、目を閉じ、天のおん父の腕の中にやすらぐ子供のように自分を委ねました。」 『泉』60p

エリザベットはすべてが混乱していたとき<現在>は非常につらく、<未来>はなお暗く感じられたとき、目を閉じ、天の父に子供のように自分を委ねていたと言っています。確かに毎日は暗く、希望がないように思えたことがありました。しかし、そのように動揺するときにこそ、実は「子供のように神に委ねる」態度をエリザベットは培ったのです。「母親の腕の中にいるとき、太陽が照っているか、雨が降っているか、それほど心配しない子供」のように。

苦しみ、混乱のとき、神が私たちに要求されるのは、その真只中で、神のいつくしみの愛に単純な心で信頼することだと自分の体験からエリザベットは勧めます。彼女は自分にとってとても苦しかった時期この信頼と委託に生きてきたからこそ、神に希望して生きることを周りの人々に確信をもって伝えられるのです。

 

自分のみじめさに落胆するとき

エリザベットが残した手紙の中に、死を目の前にして書き終えた手紙があります。それは19歳のフランソワーズ・ド・スルドンに宛てたものです。気まぐれな性格のフランソワーズは、その性格の難しさ、激しさゆえにとても悩みました。こんな自分では愛するエリザベットが勧める「神は私のうちに、私は神のうちに」生きることはとてもできそうにありません。このことを七歳年上で姉のように慕っているエリザベットにたびたび打ち明けていました。しかし、エリザベットは自分の命がもういくばくもないことを感知して、フランソワーズに最後の言葉を残しました。

「永遠の光のもとに神はいろいろなことをわからせてくださいます。それを神からのものとしてあなたに伝えましょう。」

 このように前置きして、エリザベットは「どうぞ犠牲・戦いをおそれず、むしろ喜んでください」とフランソワーズに書いています。でも・・・・・友達・家族とのかかわりをこんなに難しくしている自分の性格を、どうして喜ぶことなどできましょう。戦う?戦うよりは自分から逃げ出したいとさえフランソワーズは思っています。

「もし自分の性質が戦いの対象であるならば、どうか落胆しないでください。悲しまないでください。あえて言いましょう、あなたのみじめさを愛しなさいと。そのみじめさにこそ神はいつくしみの愛を注がれるのです。」 『泉』58p

「落胆しないでください。悲しまないでください」。もちろんそうできるなら、問題ありません。できないゆえに、どうしようもないお荷物を自分は抱えこんでしまっているのです。いったいどうしたらよいのでしょう、このみじめさからどのようにしたら、解放されるのでしょうか。自由への門の鍵、この鍵をエリザベットはフランソワーズに提供します。それは救おうとされるキリストへの信頼を深めることです。「あなたのみじめさにこそ、神はいつくしみの愛を注がれます」。

 自分のみじめさを見つめて落胆するかわりに、みじめな、つまらない、罪深いものであるがゆえに、その泥沼から救おうとされるおん父のいつくしみの愛に信頼するのです。それゆえにこそ、おん子をこの世に遣わされたのですから。十字架上のキリストの想い・祈りは、神の子の<永遠の>祈りです。2000年前と同じに、今日も、明日も、私たち一人ひとりへのキリストの祈りなのです。十字架上のキリストが私たち一人ひとりのみじめさ、弱さ、罪に注がれるいつくしみの愛に信頼すること。この信頼を深めることによって、私たちは自分自身を神のまなざしで眺め、その愛に浴することができるようになります・・・・・私たち一人ひとりをいつくしまれる神の愛に。

<自分のみじめさ>とここでいうのは、神の美しさ、愛、偉大さの前での<自分のみじめさ>の認識のことです。私たちの周辺で耳にする<みじめさ>は、どんぐりの背比べによる自分のみじめさ、「あの人より私は・・・・・でない、・・・・できない」という<みじめさ>ではありません。このようなみじめさは、今日多く「出回って」います・・・・家庭・職場において、異なる共同体において、いろいろの人間関係において。日常生活の中で私たちの視点を神に置かない限り、<みじめさ>は延々とベルトコンベヤー上で廻り続けます。

「私たちを裁かれるその方が、私たちをいつもみじめさから救い出し、ゆるすために私たちのうちに住まわれていることを思い出すと本当に慰めになります。」

 私たちはとかく自分が受け入れがたいこと(自分自身をも含めて)から目をそらそうとします。それだけではありません、神のまなざしからもそらそうとします。もちろん、実際には神のまなざしからそらすことはできないのですが。こうして<みじめさ>など存在しない<かのように>生きようとします。自分に見えていなければ神も見ておられないと思うのです。

大切なことは、自分のみじめさ、罪ゆえに神のまなざしを避けることではなく、むしろそれゆえにこそ、「私たちを助け、救い出そうとされる」愛に満ちた神のまなざしにさらすことです。ちょうど洗濯物を太陽にさらすと黄ばみや汚れが漂白されるように。私たちのみじめさ、弱さ、罪は神の愛のうちに洗われ清められます。

「主の足もとでマグダラのマリアがしたように、<自分のみじめさをさらけ出す>のです。そしてそのみじめさから解き放ってくださるように主に願ってください。主は私たちが自分の無力を認めているのをごらんになりたいのです。そのときこそ、偉大な聖人が言ったように<神の無限の深淵は、被造物の虚無の深淵にむかいあい>、神はこの虚無を包みこまれます。」 『光』100p

神に近づけば近づくほどに、もっと自分が清くすばらしくなると私たちは通常思います。こんなにお祈りをし、神に近づいたはずなのに、ますます「自分はだめ」という印象を強くします。実はそれがあたりまえなのです。私たちは神の清さ、愛のみ前に、自分の醜さ、汚れがさらに見えてくるようになるからです。「みじめさの深淵は、神のいつくしみの深淵をひきつける」のです。ますますこの二つの深遠は深まってゆくことになります。

(つづく)

『泉』 =『いのちの泉へ』 伊従信子編・訳:エリザベットの神の現存の実践

『光』 =『光、愛、いのちへ』 伊従信子編・訳:エリザベット最後のことば