三位一体のエリザベット(2) 神はわたしのうちに わたしは神のうちに(前半)

2016年3月18日

 

2010年に掲載しました『福者三位一体のエリザベット』を再掲載しています。今回は第3回目 執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 伊従信子さんです。

※今年の3月3日にバチカンにおいて教皇フランシスコは、福者三位一体のエリザベットを列聖すると発表されました。列聖式の日取りが決まりましたら、このHPでもお知らせ致します。

 

わたしのうちに 主が現存されますように

エリザベトフランス印象派の絵画によく見受けられる、優雅な服装に身を包んだ女性たち・・・彼女たちとカルメル会入会前のエリザベットの姿が重なります。そのなかにエリザベットがいても不思議はないとおもわれてくるのです。若いエリザベットはその時代を生きた人でしたから。

おしゃれもし、快活に人々と接し、休暇には登山に、音楽会に、パーティに興じる普通の若者でした。何か違うことといえば、心の深みで一つの固い決心を生きていたことでしょう。他の人々と変わらない生活の中で、神との親しさに徹して生きようとしていたのです。神とのこの親しさは、決して特別な感情、感覚ではなく、ナザレトの生活のような信仰によるとの親しさでした。

これからパーティに行きます・・・・私の心を愛する方から引き離せるものはいません。きっと主は私がそこに行くことを喜んでいらっしゃることでしょう。・・・・私に近づく人々が主の存在を感じ、主のことを考えずにはいられないようになるまでに、私のうちに主が現存されますようにどうぞ願ってください。・・・・私たちはいけるホスティア、小さな聖体のいれものです。私たちのすべてが主を反映し、人々に主を与えるようになりますように。
『いのちの泉へ』p105

これは二十歳前後のエリザベットの友人への手紙です。何をしようと心の深みにおいて神との親しさを生きようとし、生きるエリザベットのひたすらな姿です。しかし、その親しさを自分のために喜び、楽しむのではありませんでした。人々に「私のうちに住まわれる神」の招きを知らせ、神の愛を注ぐ道具となることを望んでいました。いのりと使徒職などと二分化することもなく・・・神との親しさに生きるなら、神ご自身が人々に働かれるとエリザベットは確信していたのです。

では、この神との親しさを生きるとか、神が現存されているということをもう少し詳しくみてみましょう。

 

すべてのもののうちにおられる神

神は私の存在を支え、いのちの源として私のうちにおられます。私たちは、「創造主である神を信じます」と信仰宣言します。けれども、生活の中で果たしてどのくらい信仰を<宣言>しているのでしょうか、<信仰宣言>を生きているでしょうか。

創造主である神は自分を含め、すべて存在するものの根底でその存在を支えておられます。ということは神が万一そのみ手を退かれるなら、すべては無と帰してしまうのです。「・・・すべてのものはおん子によって支えられています」(コロ 1-17)。神は何処にでもおられ、その創造的働きによってあらゆるところに存在され、ご自分の命を、キリストにおいて与えられます。造られたすべてのうちに、神はそのふしぎなみ業を秘めておられるのです。

無数の美をまき散らしながら これらの林をいそいで過ぎてゆかれたのです。

そして、通りすがりにごらんになったのです。

かれはみ顔を向けただけで、かれらに美をまとわせ あとに残してゆかれたす。

十字架の聖ヨハネ 『霊の賛歌』 5

アヴィラのテレサは『霊的勧告』37の中で「すっかり水浸しになっている海綿」のたとえで示しています。神の創造の力、いのちが海綿に浸透する水のように、私のすべてを浸していると述べています。それは母が子を腕に抱きかかえるような支えではなく、神の愛・命が私の中にしみとおり、私を包み込むように。「私たちは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17-28)。

私たちは神の「似姿」に造られました。神の愛の息吹を吹き込まれた人間なのです。神の命への参与である恵みは、神の臨在の最も高いみ業です。この神の内在のあらわれ方は、十字架の聖ヨハネが言う大自然におけるように神が「その足跡だけを残された」内在から、神の本性そのものへの参与「洗礼の恵み」に至るまで異なりますが、神の現存の仕方そのものは変わりません。

 

友として、父としてわたしのうちに住まわれる神

「創造主である神を信じます」と信仰宣言するとき、「神は創造主として創造されたもののうちに存在し続け、今も、常に創造し続けておられる」ことを宣言します。神はすべてのものを創造されたという過去形ではありません。それは創造主として、神は「今、現在」創造されたものとの関係を保っておられるということです。私のうちに内在される(住まわれる、留まれる)神との関係において、人間の側から働きかけなくても、神はその創造のみ業によって、その人のうちに(肉体、精神にも)彼の存在と命の原因、支えとして現存しておられます。これがすでに述べた神の現存の第一の仕方です。

けれども、第二の現存の仕方とは、神がご自身を知るように知り、ご自身を愛されるように愛する仕方で、私たちは現存する神とかかわることができるのです。

実は、このような大きな恵みを私たちは洗礼の時に受けています。「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けたものは、この三位の交わりに招き入れられ、このかかわりをさらに深める力、神に対して働きかける力を与えられています。洗礼の恵みによって、私たちは神に「アッバ、父よ」と呼びかける関係に入ったのです。こうしてこの第二の神の現存(の仕方)によって、神は私たちに友として、父としてご自身を与え、三位一体の親しさへと導きいれてくださるのです。三位一体の命を分けてくださいます。

神の現存に生きることは聖書の中でもしばしば述べられています。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいることを知らないのですか。・・・私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている。(1コリ3・16、ロマ5・5)

また福音史家ヨハネは、最後の晩餐での主の別れのあいさつで次の言葉を強調しています。

私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14・23)

神は私たちのうちに見知らぬ者としてでなく父として、友として住まわれており、私たちはその父なる神と親しく生きるように招かれています。三位一体のエリザベットが、「あなたの名は神の家」と自分のうちに内在する神の神秘について知らされたのは、実はこの洗礼の恵みの神秘だったのです。洗礼を受けたすべての人が生きるはずの神秘です。それゆえにエリザベットは、日々の生活の中で、この神秘に自分の生き方を集中させ、生活の中心として生きました。それだけではなく、彼女の家族、友人たちに「私のうちに住まわれる神」との親しさに生きることを勧めたのです。
つづく

伊従 信子

『いのちの泉へ』-神の現存の実践のために 伊従信子訳編、ドン・ボスコ社