イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために(2)ーマリー・エウジェヌ師と共に

2012年4月6日

2年前の2010年3月に来日したエマニュエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)が、聖週間の準備として上石神井のノートルダム・ド・ヴィで行った講話を2回続きで、再度掲載しています。これが2回目の最終回です。

内容は、聖週間に限定されることなく、イエスとマリアと共に、信仰を生きるためのヒントがたくさん発見できると思います。キリスト教の信仰を深めたいと思う方すべてに、おすすめします。

どうぞ良い復活祭をお迎えください。


イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために
~幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に~(2)

講師 エマヌエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)
2010年3月28日(日)

イエスの最後の息

croixイエスが十字架で息を引き取った時、マリー・エウジェンヌ師は、本当にイエスの側に立っているかのようでした。私たちもその場所に招かれています。聖書の中で“イエスが息を引き取られた”と書いてあります。イエスの言葉、“父よ、私の霊を御手にゆだねます。”にある霊は、マリー・エウジェンヌ師にとっては聖霊です。そして彼はイエスのすぐ側で、この息を頂こうとします。これが師の祈りでした。
『イエスよ、あなたの最後の息をいただき、その息吹に乗って父のもとに行かせてください。私の魂も、あなたの息吹に運ばれていきますように。神の息、イエスの息吹、その息吹をおし抱き、自分のものとしたいのです。』
その受難と死によって、イエスは私たちに全てをくださいました。全てを下さったので、彼にはもう何も残っていません。そして、ご自分自身を私たちにくださったのです。父に全てを返し、私たち一人ひとりにも下さいます。イエスは、私たち一人ひとりに私たちの人生の意味を教えてくれます。なぜなら、私たちもイエスと同じことをするように招かれているからです。頂いた聖霊の恵みを持って、マリアと共に・・・・。

聖土曜日 マリアと共に

Marie noir十字架の上でイエスは私たちにマリアをくださいました。愛された弟子ヨハネは、マリアを自分の家に引き取ります。そして、聖土曜日は特別な日となります。それは同時に、聖母マリアの日とも言えます。イエスは死んでおり、沈黙と喪に服す日です。でもそこに希望がほのかに見える日でもあります。マリアは十字架のもとに立っていました。マリアはこの闇の絶望の中にも立ち尽くしていたのです。そこで希望と信仰を保っていました。父なる神の小さな娘として・・。この聖土曜日の、小さな唯一の希望は、聖母マリアでした。私たちの人生においても、聖土曜日があると思います。全てが闇に覆いつくされるとき、それはマリアの時です。
弟子ヨハネの家に迎え入れられたマリアは、そこで唯一の希望でした。ですから、この聖土曜日に、私たちもマリアとともに、ヨハネの家に行きたいと思います。マリアのそばに留まるために。子どもたちがそうするように、マリアを母として眺めそばにいるために。これが聖土曜日の師の祈りの一節です。
『マリアよ、今あなたは、私たちの唯一の生ける希望。あなたのそばに行きます。エルサレムでの持ち家に、ヨハネはあなたを連れて帰り、二階の高間へと案内します。私たちもまた、静かにあなたのもとに留まっていたい。あなたを見つめ、沈黙によって愛を表すわすために。あなたの心の深みへと入って生きたい。共にこの何時間かを過ごしていきたいのです。』
そのときのマリアは信仰の人でした。彼女は、その苦しみを乗り越えて、信仰のうちに留まるのです。神のもとに隠れ家を求めていきます。私たちはマリアの子どもですから、彼女の真似をしたいと思います。子どもたちがいつもお母さんを真似るように。
『マリアよ、今日、あなたの教えてくださることが深く心に刻み付けられるよう、あなたのそばに留まらせてください。あなたに倣うことは、苦しむこと・・。苦しみに押しつぶされそうになっても、希望を保っていること。人間的な支えもなく、人の目から見れば絶望的に思われるときでさえも、この信仰、無一物となった希望によってこそ、復活の神秘のうちに入って行くことができます。こうして希望が大きくなればなるほど、復活された主から湧き出でる命の水の泉から、ふんだんに飲むことができます。マリアよ、それはとりわけ神の哀れみの愛とあなたの慈しみによるのです。』

マリアの希望と復活の喜び

PICT3495_2ですから、マリアの信仰と希望と共に復活の喜びの中に入っていきましょう。そしてこの世の闇の神秘の中で主は復活されました。復活の日は命の勝利の日です。これが私たちキリスト者の信仰の中心です。私たちの希望の基盤です。なぜなら、神の愛は私たちの罪と死を超えて無限に強いからです。復活したキリストを眺めながら、マリー・エウジェンヌ師の眼差しは教会に広がっていきます。キリストの命とは、キリストの肉体の命だけを意味しているのではありません。それは同時に、「教会」というキリストの神秘体の命も示しています。この命は私たち一人ひとりのためのものです。復活祭は教会の始めです。そしてここでイエスはその体で、あふれる命を私たちに示されます。それは同時に彼の神秘体の命の溢れでもあります。キリストから溢れ出る命は、私たちの魂の中にあふれ出て、キリストの神秘体のうちにも全て溢れ出ていくのです。
キリストの命は、私たち一人ひとりのためであり、私たちの周りにいる全ての人々のためです。復活祭の日というのは、私たちがキリストの命をまわりに広げていくことができる、そんな日でもあります。それをするようにとマリー・エウジェンヌ師も私たちを招きます。

復活の朝に キリストとマリアの出会い

今日、私たちの祈りによって、今日この復活の日に、主が私たちのうちに命を広げていってくださることを願いましょう、その命が私たちの愛する全ての人びとのうちに、教会全体に広がっていくように・・・。福音書ではその後、主がどのように弟子たちに現れたかが書かれています。福音書には書かれてはいませんが、キリストが母であるマリアに出現されたということは、マリー・エウジェンヌ師にとっては、当然なことでした。教会の歴史の中で沢山の聖人たちがそのように考えてきました。特に復活祭の次の日、復活祭の月曜日に、師は、キリストがマリアに会われる場面を黙想しました。キリストが特別に母マリアのもとに来られ、母を慰める日なのです。復活の輝く光の中でご自分を母に示すために・・・。
師はやや大胆にこのように語ります。
『復活の日の聖母に目を注ぎましょう。主がみ母マリアにお現れになったことは、確かだと思います。復活されたおん子は、み母がご自分の喜びと勝利にあずかることを望まれたはずだからです。』
この場面を愛する人の全てを知りたいと望みつつ、よく眺め、黙想しました。
『今日、しばらくの間、この復活の月曜日に、聖母マリアの喜びに目を注ぎましょう。私たちの母であるマリアがどのようにこの日を過ごされたのか、何を心の中で思い巡らしておられたのか知りたいからです。』
マリアの心の内に何があったのでしょうか?それは喜びでした、溢れんばかりの喜びでした。復活の月曜日の説教の中で師はこう語ります。
『今日、イエスは復活しみ母に現れました。なんという喜び!お告げのときの天使の言葉は本当でした。マリアが世に与えたおん子は確かに、神の子、救い主でした。人々の手にかかって殺されたのはおん子自ら苦しみと死を味わわなければならなかったからでした。』この喜びの祝いは聖霊の祭りとも言えます。これは既に天上の喜びの一端です。そしてこのように語ります。
『これがマリアの喜び、聖霊はマリアのうちで祝宴を開きました。ただ外目にはまったき静けさのうちに。すでに天上のもののような清らかさと美しさの中で。』

教会の母、マリア

このマリアの喜びは教会全体の喜びでもあります。なぜならマリアは私たちの母であり、私たちはマリアに向かってお母さんと呼びます。彼女の喜びは私たちの未来でもあります。なぜなら、私たちもいつかその喜びを味わうことができるからです。この地上は、闇の中、暗闇の中でしょう、でも私たちはその喜びに向かって歩んでいるのです。その喜びは私たちの望み全てを満たしてくれるのです。そしてその喜びは私たちの期待の全てを越えるものです。ですからマリアに私たちの聖週間の歩み、復活祭へ向かう歩みをゆだねましょう。それは信仰と希望と愛のうちの歩みです。ここで紹介したマリー・エウジェンヌ師と教会の中の全ての聖人たちとともにイエスに従って歩みましょう。私たちの歩みはつつましく、貧しいものかもしれません。私という貧しい小さな罪人のためにこそ、イエスはこの世に来られたのです。そしてある日、私たちも使徒パウロのように、このように言うことができるのではないでしょうか。パウロと全ての聖人たちと共に。
「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。この肉体における私の命を、私は神の御子キリストへの信仰のうちに生きている。キリストは私を愛し、私のためにご自分を捧げてくださったのだ。」

<終わり>