【音声】10分講話 祈りとは? 第2回 「友情」-神との親しい語り合い

2021年3月7日

講話:中山 真里(ノートルダム・ド・ヴィ会員)2021年3月収録

第一回目のお話しでは、祈りを信仰生活全体のなかに位置づけながら、その目的はわたしたちがイエスに変えられていくことだとお話しました。キリスト者にとってその過程が「生きること」そのものと言えると思います。今回は、もう一歩深めて、ではその過程をどのように生きるのか、ということをお話ししようと思います。約15分 (中山 真里)

***講話の原稿も載せておきます***

(上の文章からの続き)まず言えるのは、イエス・キリストに向かう道のりはイエス・キリストご自身だということです。イエスは洗礼を受けられ、砂漠で誘惑にあわれ、人々に神の国を述べ伝えられ、そのときどきに御父に祈られ、受難と死を通して復活されました。福音書に描かれたこれらのイエスの生き方、それはとりもなおさず私たちのためであり、わたしたちがどうすれば真の人間になっていけるかのモデルです。そのイエスはたびたび祈られました。ではわたしたちもイエスにならって祈りたいと願います。

そのわたしたちを導いてくれるのはアビラのテレサです。テレサの祈りについては、この「10分講話」のなかで既にお話しましたが、もう一度、別の観点からとりあげてみたいと思います。テレサにとって祈ることは信仰の歩みのなかでどのような意味をもっていたのでしょうか。そのことを今日のお話の中心にしたいと思います。


ではまずテレサの嘆きを聞きましょう。彼女は16世紀のスペインに生きた人ですが、テレサの嘆きは時代にかかわらず人間の普遍的な思いとして現代のわたしたちにも通じる深みをもっています。テレサが人生のある時期に陥っていた危機的な状況がどのようなものであったのか、少し長い引用になりますがお聞きください。(今日、引用させていただく箇所は、東京女子カルメル会訳『イエスの聖テレジア自叙伝』によります)

  私は生きたかったのでした。なぜなら、一種の死のようなものに対して絶え間なく戦うのは、生きることではないとよくわかっておりましたから。だれも私に生命を与えてくれる人はありませんでしたし、自分からそれをうることはできませんでした。(自8・12)

少しびっくりするような言葉ですね。もちろんテレサは死んではいません。しかしにもかかわらず彼女は「生きたい」と願っているのです。さらに、テレサがここで語っている「一種の死のようなもの」とは何を指しているのでしょう。おそらくそれは、テレサが他の箇所で述べている「神と世間との闘い」ではないかと思われます。そのことが次のように描かれています。

  これこそ、人が想像しうるかぎりの最もつらい生活であると言えます。私は神を楽しまず、また世間のうちにも満足をみいだしませんでしたから。世間的な喜びの真中におりました時は、神に対する自分の義務を思い出して悲しんでおりました。神とともにいたときは、世間的な愛情に心が乱されていました。

心のなかに沸き起こる様々な欲望にふりまわされて、いのちの源である神に十全に帰依することができず、かといってその欲望に溺れきるにはあまりにも心の渇きが激しい。結局のところどちらにも錨をお ろすことができず、常に漂っている状態、それをテレサは「死」という言葉で表現しているのではないで
しょうか。彼女の心の叫びは強烈です。自分は生きたい、けれどだれも生命を与えてくれる人はおらず、 自分からそれをうることはできないとよくわかっている、それが彼女の苦悩でした。

そしてこの叫びは 私たちのものでもあるのではないでしょうか。私たちを本当に生かしてくれるいのちを私たちは自分か ら手に入れることはできません。そしてそれを与えてくだされる方をテレサは何度も自ら拒んだと告白 しています。

  私にいのちを与えることのおできになった方は(…)何度となく私をご自分に連れもどされたのに、私はいつもその方を捨てたのですから。

いのちを与えることのできる方とは他ならぬイエス・キリストです。ここでパウロの言葉を思い出します。「私にとって生きるとはキリストです。」では、私たちにいのちを与えられる唯一の方、言い換えれば いのちの源である方にしばしば背を向けて自分勝手に生きてしまう人間は何がまちがっているのでしょ うか。テレサは自分の体験から私たちに次のことを伝えてくれます。

  自分をすっかり見限って、神に全信頼をおかなかったというところに私の非があったように思います。私は自分の苦悩に対する薬を求め、いろいろつとめてみましたが、神のうちにすっかり憩うために、自分に対する信頼をすっかり除き去らぬかぎり、私たちの努力はたいして役にたたないということが、たぶんわからなかったのでしょう。 

テレサのこの言葉をかみしめましょう。そしてテレサの言葉に従って、自分をすっかり見限り、神を信頼するという歩みを始めましょう。すべてが私たちにとってよいように計らってくださる神、ご自分の一人子さえ惜しまず私たちのために差し出してくださった神、その神の愛に全幅の信頼を置くということが私たちに求められる仕事です。けれどそれは決してたやすい仕事ではありません。自分を見限り、自分への信頼をすっかり捨てるとはいったいどういうことなのでしょう。しかも目に見えない、感覚に触れることのない神をどのように信頼すればよいのでしょう。その道のりは長いのです。けれど歩みはゆっくりでかまいません。時には迷ってもまた神への信頼へともどってきましょう。神への信頼と愛が深まるにつれて自分をがんじがらめにしている縄は少しずつ外れてくることでしょう。
 さてテレサは、自分にとっては死のように思われる辛い状態を18年以上も続けたと言います。そしてその苦しい戦いの間、テレサが私たち皆に勧める武器が念祷、つまり祈りなのです。テレサは一言付け加えて、念祷とは心の祈りであると教えてくれています。沈黙のうちに神に向かう自由な祈りです。どのような時でも念祷をやめないようにとテレサは何度も何度も繰り返してその大切さを伝えます。

  まだ念祷を始めなかった人に対しては、私はこれほど大きな宝を持たずにいることのないようにと、神の愛のためせつにお願いいたします。

  念祷は私のすべての悪に対する薬でした。
念祷に身をゆだねるならば、すべての負担を引き受けてくださるのは主ご自身です。

もしも自分が神にふさわしい者でないことを辛く思い、こんな私が祈っても何もならない、あるいは祈 っても時間が過ぎるばかりで何の実りも見えてこない、だから祈りをやめてしまおうとするならそれは 大きな誘惑です。テレサは、「念祷をしないことはきわめて大きな害があります」と断言しています。
 ではテレサにとって念祷とはどのようなものであったのかについては、既にお話しましたがもう一度 繰り返すことをおゆるしください。ここにおいて私たちはテレサが残してくれたたくさんの貴重なメッ セージのなかでも、とくに重要なメッセージと出会うのです。

  念祷とは、私の考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神とただふたりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません。

これを聞くとあらためて祈りはとてもおおらかで自由なものだと思われてきます。どのような規則も、 あるいは方法も述べられていません。親しい友同士が語りあうように、神と語りあえばよいのです。私と 神とが心を通いあわせること、それが祈りの本質です。条件はただ一つだけ、この私、つまり罪も欠点も 欲望もたくさんもっているこの私、そのために人生の生きにくさを感じているこの私を、にもかかわら ず神は愛してくださっていると信じることです。では大きく深呼吸をし、肩の力をぬいて、私との語り合 いを待っていてくださる神に向かいましょう。そして祈りが神と友情をかわすことなら、当然それは育 まれ、深まっていくはずのものです。そのためにテレサは、「ふたりだけでたびたび語り合う」と付け加 えるのです。人と人との友情でも同じことです。友情をはぐくむためにはふたりだけでたびたび心を通 わせて語り合う必要があります。もちろん神にそのような必要はありません。時間のなかに生きている、
そしてすぐに大切なことから心をそらしてしまう人間にとって必要なことなのです。一番たいせつなも のは時間の中でしか熟していかないのです。


ところでどうしてテレサはこのような自由でおおらかな祈りを自分のものとしていったのでしょうか。
どうやら彼女は当時流布していた祈りの方法に慣れることはできなかったようです。頭を使って推論する黙想などは苦手でした。テレサは前述のように「いのち」を求めていました。そのいのちはイエス・キリストとつながることでしか得られないのですから、込み入った複雑な方法などを経ずに、早くイエスの方に行きたいのです。そしてそこのキーワードは友情であり、愛です。そうであるならその表現は時に応じて色々な形をとることは明らかで、その意味で祈りはまさに一期一会、二度と同じものはなく、ひとつの方法にしばられることもないのです。
 どうかテレサと共に、念祷を、祈りを始めてください。単純で自由な心でイエスと語りあってください。もしかするとその単純さゆえに難しいと感じることがあるかもしれません。そのことについてはまた別の機会にゆずることにして、まずは祈りを始めましょう。そうすれば必ずイエスが、聖霊が手をのばして必ず助けてくださるでしょう。

中山 真里(ノートルダム・ド・ヴィ会員)