【音声】10分講話 祈りとは? 第1回 「顔」 ー 神のみ顔を求めて

2020年12月20日

講話:中山 真里(ノートルダム・ド・ヴィ会員)2020年12月収録

待降節が始まり教会の典礼は新年を迎えました。世界中はまだまだコロナウイルスに苦しめられ ていますが、このときこそ、わたしたちにとって唯一の希望である方を祈りのうちに待ち たいと思います。そのため、今日から数回にわたり「祈り」についてご一緒にみ ていきます。

このお話のなかでは、祈りについてあまり細かいことは扱いません。
たとえばどのような種類の祈りがあって、それが何を目指しているかというようなことで はなく、祈りを信仰生活全体、つまり神への歩みという大きなプロセスの一部として位置 づけます。そしてその神への歩みとはどのようなものかをお話しすることになります。

教会の歴史のなかで、祈りといえばすぐに思い起こすアビラのテレサにとっても、祈りと信 仰生活は切り離すことのできないものでした。彼女の導きを願いながらお話を始めましょう。第1回目の今日は、「顔」というテーマです。

***講話の原稿も載せておきます***

祈りについてお話ししようとするとき、いつも思い出す物語があります。小学校の国語の教科書にのっていた物語で、他のことは全部忘れたのに、どういうわけかこれだけが記憶に残っているのです。著者は海外の人で名前はもう忘れてしまいましたが、題名が「いわおの顔」だったことだけは覚えています。次のような物語でした。


 あるとき、ある村にひとりの男の子が住んでいました。その村には、「いわおの顔」と呼ばれる場所がありました。村のはずれの崖に長年の風雨によって刻まれた岩がまるで人の顔のように見えるところからこの名前がつけられていました。この村の伝説によると、このいわおの顔とそっくりの人物が現れたとき、村は繁栄し、村人は幸せに暮らすことができるというのです。男の子は村のその伝説を信じ、毎日毎日、岩に刻まれた顔をながめてはその人物がいつの日か来るのを待ちこがれていました。


 時が流れ、色々な人物が村にやって来ました。そのたびに、村人たちはこの人こそいわおの顔の人であると歓迎したのです。最初にやってきたのは、偉い政治家でした。盛大なパレードをともなってやって来た政治家は、けれどしばらくするといわおの顔ではないことが村人たちにわかりました。その後にやってきたのは、軍人、そして商人でした。そのたびごとに村はわきたち、大歓迎をして迎えたのですが、いずれの人物もしばらくするといわおの顔とはほど遠いことが明らかになっていきます。


 男の子も村人とともにやってくる人を歓迎しました。そしてそのたびごとに期待は裏切られました。しかしいわおの顔を毎日ながめることは決してやめようとはしませんでした。月日は流れ、男の子は少年から青年へ、やがて老いを迎えるときとなりました。ある日、白髪が混じりかけたその人が、いつものように外に出て、「いわおの顔」をながめて長い時を過ごしていたとき、ひとりの村人が彼の顔が「いわおの顔」とそっくりであることに気がついたのでした。


 このような物語です。幼いときにこれを読んだ後、わたしもまた物語の男の子のように月日を経、あるときこの物語のなかに人間の普遍的なあこがれがあるのに気がつきました。わたしたちの中にある果てしないあこがれ、幸福になりたいという思い。それはこの世界の皮相的な事象をこえて、いのちそのものに触れることによってしか満たされない望みです。


 旧約聖書の人々は、その望をいのちそのものである神に向けました。そしてその神を探し求めるのに、「神のみ顔を求める」という表現を使いました。神の顔は見えることはないとはいえ、生ける神の力に満ちてイスラエル民族のただ中に住まわれ、彼らにとって「神のみ顔」はあらゆる力の源でした。次の心に沁みる詩編はイスラエルがどれほど神のみ顔を探し求めていたかを表しています。

(新共同訳)
   涸れた谷に鹿が水を求めるように
   神よ、わたしの魂はあなたを求める。  
   神に、いのちの神に、わたしの魂は渇く。
   いつみ前に出て 神のみ顔を仰ぐことができるのか。(42・2-3)
それに対し、神は倦むことなくイスラエルにこう呼びかけられます。
   まことに、主はイスラエルの家にこういわれる。
   わたしを求めよ、そして生きよ。(アモス5・4)

   心よ、主はお前に言われる。
   「わたしの顔を尋ね求めよ」と。(詩編27・8)


神はイスラエルが常にご自分ではなく、他のものに心を奪われていくことをよくご存じなのです。ですから預言者を通し、主は倦むことなくイスラエルに呼びかけ、「わたしを求めよ、そして生きよ」と言われます。後にイエスは「心の清い人は、幸いである。その人は神を見る」(マタイ5・8)と告げられます。心の清い人、つまり心を他のものに分かつことなく一直線に神を求める人のことです。

 わたしたちキリスト者は、旧約の人々が探し求めた「神のみ顔」は、イエス・キリストのみ顔であることを信じる者です。キリスト者にとって、「いわおの顔」はキリストです。その顔をしげくながめ、やがて自身も知らぬうちにキリストのみ顔に似た者となる、言い換えればキリストに変容されていくことが信仰者の道のりであり生涯の目的です。そこへの道のりが信仰生活全体であり、その道のひとつが「祈り」であると言えるでしょう。わたしたちがキリストへと変えられていくことを、パウロはコリント人への第2の手紙のなかで語ります。


わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映しだしながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます(3・1)。

それでは主と同じ姿に造りかえられるために、その手段のひとつである祈りに必要なことは何でしょうか。イエス・キリストを知ることです。先ほどの物語にそって言えば、「いわおの顔」は聖書という岩の中に刻まれているイエスのみ顔です。わたしたちはその顔をながめながら、主によって造りかえられていきます。
ですから、まず聖書をていねいに読むことが何よりもたいせつです。そこにイエスの「み顔」をながめる、つまりイエスとはどのような方であるかを少しずつ理解しそれを愛していくこと、それが祈りひいては信仰生活全体の基礎です。み言葉を味わいそれをわたしの心と体に沁み込ませるのです。
聖書を読むことは時に多くの忍耐を必要とします。けれどその地道でたゆまぬ努力のなかでしか、「隠れた方」である神はそのみ顔を示されることはありません。


わたしたちはイエスを眺めながら、イエスに変えられていきます。その全過程が信仰生活であり、そのひとつの手段が祈りです。教会はその長い歴史のなかで色々な形の祈りをうみだしてきました。しかしその根本はすべて同じです。わたしたちがイエスに変容されていく時間なのです。

中山真里
ノートルダム・ド・ヴィ