1963年4月15日復活の月曜日の説教より。
起きよ、光を放て、
あなたを照らす光は昇り、
主の栄光はあなたの上に輝く。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、
おののきつつも心は晴れやかになる。(イザヤ書60.1-5)
昨日、私たちは、復活したイエスを眺め、その輝く光に包まれ、また復活された主を見て、希望をすっかり取り戻した弟子達の喜びを共にしました。
今日は、しばしの間、聖母マリアの喜びに目を注ぎましょう。私たちの母であるマリアが、どのようにこの日を過ごされたのか、そして何を心の中で思いめぐらしておられたのかが知りたいからです。
一人でおられる聖母を探しに行きましょう。いつも、決して人前には立たず、影でたたずんでおられるマリア。そんなみ母を見出し、その心を知るためには、こちらが努力しなければならないからです。でも今、その必要を感じています。
しばし、復活の日の聖母に目を注ぎましょう。主がみ母にお現れになったことは、ほぼ確かなことと思われます。復活された御子は、み母がご自分の喜びと勝利に与ることを望まれたはずだからです。
聖金曜日の夜、そして聖土曜日の一日、聖母は私たちには考えも及ばない深い苦しみのうちに沈んでおられました。静かな高貴さをたたえつつも。
苦しみのうちにあなたの偉大さがあらわれました。
「これがあなたの母です」という御子の言葉を受けられて以来。
カルワリオの丘で、主はマリアの母性を聖別されました。この神的母性は、キリストの神秘体における恵みの母性となり、新しく生まれた人類全体のための母性となりました。
偉大な母、でもなんという苦しみを味あわれたことか。
その神秘を理解したいのです。
人知を越える苦しみ、苦しみの洪水の海原で、一つの炎が燃えていました。
希望の小さな炎。小さくとも強い希望。
この希望は聖母を生かし、聖母のうちですでにキリストの神秘体を生かしています。十字架の下、死んで葬られたイエスの傍らで、マリアは唯一の希望でした。
唯一の希望。常に生きており、実りをもたらす母性という希望。
今日、イエスは復活し、み母に現れました。何という喜び!
エリザベトを訪問した時に、マリアはこう歌いました。
「私の魂は、主をあがめ、わたしの霊、魂のすべては、喜びおどります」(ルカ1/46.47)
ならば、復活の日の喜びはいかに大きいことでしょう!
希望は満たされ、マリアの魂、すべてが喜びにうち震えたことでしょう。
お告げの時の天使の言葉は本当でした。マリアが世に与えた御子は、確かに神の子メシアでした。人々の手にかかって殺されたのは、御子自ら苦しみと死を味あわなければならなかったからでした。
イエスは今、復活し、生きています。イエスは確かに、預言者達が約束した王でした。彼こそ、真に人となった神。比類なき人であると同時に、全てを越える神でした。
喜びおどるマリアは、希望にもうち震えていました。十字架の聖ヨハネは、魂のうちの「み言葉の目覚め」について語ります。(注 「なんとやさしく愛深くあなたは私の胸の中でめざめられることか」、『愛の生ける炎』第4の歌解説 p。191以下)ここで聖母が体験なさったのも、この「み言葉の目覚め」にほかなりません。眠っておられたかに見える「み言葉」が聖霊の息吹と炎を受けて、魂の中で目覚めたのです。
「み言葉」は、喜びに歌い踊りつつ、霊魂、恵みだけでなく、体さえも喜びにうち震わせるのです。喜びの源が霊的なものである時にも、同じようなことがおこります。喜びは、その人の存在そのもの、人格すべてに浸透してゆくのです。ですから、マリアの場合もただ単に体で喜びをあらわしたのではなく、内側からつき動かされるような喜びに、存在すべてが揺さぶられたのです。人となった神、御子イエスの復活した姿を見、その体に触れ、抱擁した時に。
これが、マリアの喜び。聖霊はマリアのうちで祝宴を開きました。ただ、すべては外目には、まったき静けさのうちに、すでに天上のもののような清らかさと美しさの中で。
そして、もう一つの希望、マリアの霊的母性がすでに働き始めていました。復活したキリストは広く命を与えてゆきます。比べるものなき勢いで、キリストから光と命がほとばしり出てゆきます。この命は、キリストがご自身の神秘体を築き上げるまで、溢れ続けるのです。
「キリストこそ、礎(いしずえ)」(1コリ10.4)、生命の泉。
大きく広がったキリストの神秘体は、神が永遠に望まれた背丈に達するまで、さらに成長してゆきます。
イエスは、死を前にして、こう願われました。
「父よ、世界ができる前に、私があなたのもとで持っていたあの栄光を与えてください。わたしをあなたが、前もってご覧になった通りの者にしてください」(ヨハネ17/5参照)
この神のみ旨、永遠のご計画は、実現しつつありました。聖母は、これら全てを知っておられ、この生命の力、その贖いと清めの力、一致へと向かう命の力を感じておられました。
主キリストからわき出る生命のほとばしりを見ながら、マリアは自分がどれほど、この実りをもたらす力へと結ばれているかを感じておられました。
聖三位は一人の母を必要としていたのです。マリアは、お告げの日に母となりました。人となった神、その位格的結合(union hypostatique)が実現するために神の母となりました。そして今、マリアは、今までにもまして、自分が母であることを感じています。マリアの母性は、これからキリストの神秘体へと、築かれつつある教会全体へと広がってゆくからです。
ご自分のうちで、教会の広がりと共に開花した母性を、聖母は力として、働きとして、感じておられます。こうしてマリアの母性は神のみ旨とともに大きくなってゆくのです。
聖母の霊的母性をたたえましょう。
いのちの母、いのちの聖母をたたえましょう。
実りを豊かに与える方、無原罪の清さと美しさに包まれた方、
そして、何よりも母そのものである方。
今日、わたしたちの祈り、子としての愛と賛美は、
いのちの聖母へと、霊的母性にあふれるマリアへと向かいます。
いのちの聖母へ願いましょう。
わたしたち一人一人にとって、マリアが真に、まったきいのちの母となるように。
そして、聖母の与えられる実りが、私たちの願いによってだけではなく、
神のみ旨によって、完全に、私たちの間で実現されますように。
抄訳・編集:片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
Marie, Mère du Ressuscité
In Jésus contemplation du Mystère Pascal, P.Marie Eugène de l’E.J.
(Homelie du Lundi de Paques, 15 avril 1963)