聖なる過ぎ越しの三日間を主と深く一致してお過ごしいただけるよう、
福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父のお説教やメディテーションを連続してお届けします。
今回は、1963年4月13日 聖土曜日の朝の黙想 マリア、闇の中の希望です。
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十字架のもとで、聖母は立っておられた。痛々しくも、威厳と力に満ち、あなたこそ真に強き者。
ヨハネは聖母の傍らに立ち、同じく苦しんでいた。イエスが選んだ弟子の中で、十字架の下にいたのは、彼一人。聖母はヨハネに委ねられ、彼は家族の一員として聖母を引き取った。なんという勇気と恵み。だが今このとき、なんと苦しみに満ちた荷であることか。
ヨハネは、マリアを連れ帰った。マリアは、しっかりした毅然たる態度を失わない。無原罪の御宿り、マリアこそ、全く汚れなく強きもの。その意志に、弱さは見られない。だが、心の内には、何という苦しみ。頭を覆い尽くす何という苦悩!
マリアの息子、受肉されたみことば、王であるイエスは死んでしまった。」その遺体は、一介の死者として墓に葬られた。確かにイエスは死んだ。脇腹の傷が明らかに示していたように。最後まで期待を捨てようとせぬ最も強い愛情の持ち主にさえ、その事実について錯覚を抱く余地はなかった。イエスは死んだ。そして、その亡骸さえも残されていない。マリアはひとりぼっちになってしまった。
イエスの公生活の間もマリアは孤独に慣れていた。だが、息子が宣教で納めた成功や奇跡などの便りを聞くことができた。
同時に、イエスの使命や、神性への冒涜のただ中でも生きてきた。同族の親戚達の中でつらい思いをすることもしばしばだった。彼らはイエスを信ぜぬどころか、軽蔑さえしていたからだ。だが、イエスは生きており、力強く良きおとづれを告げていた。それで、マリアは幸せだった。
今、全てが失われた。一見、親戚たちが正しかったかのようだ。権力者達は、イエスを断罪し、ピラトと申し合わせて有罪の宣告を下した。
マリアは、一人きりとなった。わたしたちに残された唯一の真の力。だが、本当に一人きり。そして、いずれば実りをもたらすべき力を、マリアは今、重みに耐えつつ、痛々しく担っている。
十字架は私たちの希望。マリアよ。今やあなたは、私たちの唯一の生ける希望。あなたのおそばに参ります。
使徒ヨハネは今までイエスに向けてきた限りない尊敬と愛情を、子としての優しさをこめてあなたに注いでいることでしょう。細やかな心遣いでもって、ヨハネはおそらくあなたをそっと一人にしておくことでしょう。ヨハネには、あなたが自分よりはるかに高いところにおられる方であることがわかっているからです。あなたは神ではありません、でも神のご計画に参与された方です。あなたは女王なのです。その毅然とした高貴な態度により、そして比類なき苦しみによって。ヨハネには、それがわかっていました。あなたは、イエスの身体と心の苦しみの中へ入ってゆかれました。なんと気高く、超自然的な態度でその苦しみを担われたことか。
エルサレムでの持ち家にヨハネは、あなたを連れ帰り、二階の高間へと案内します。そこにあなたはおられる。おそらくは、他の聖なる婦人達、カルワリオにいたもう一人のマリア、マグダラのマリアなどと共に。
あなたの沈黙を尊重して、他の婦人達は、静かに涙を流しています。
周囲の人々も皆、場違いな愛情の表現によって、あなたの心を騒がせてはならないと知っているのです。
マリアよ。私たちもまた、静かにあなたのもとでとどまっていたい。
あなたを見つめ、沈黙によって、愛と敬意をあらわすために。
あなたの魂の深みへと入ってゆきたい。
ともにこの幾時間かを過ごしたいのです。
今に生きる私たちは、復活の確信と希望を持ってこの時を生きることができます。教会の典礼の中にも、すでに復活の希望がうかがえます。
マリアよ、あなたもまた、暁の光のように昇ってくるこの希望をおぼろげに見ておられる。けれども、光はまだ地平上には現れず、ほんのわずかな光がかすかにもれてくるだけ。聖母は、闇の中にとどまっておられる。
それはあなたにとってのゲッセマネの時、比類なき苦悩の時が、一段と激しさを増して、いまここに繰りかえされる。
あなたは一人きり、イエスはもういない。取り囲む暗闇の中で、悪の力が騒ぎ出す。その怒りが感じられ、闇の力は確かに勝ち誇っている。悪魔は、荒れ野での誘惑に破れて以来、公生活の間中、その腹黒い計画をたくらんできたのではなかったか。受難の時、悪魔は大勢の仲間と一緒に戻ってきた。イエスをゲッセマネでうちひしぎ、力の限りを尽くしてユダに働きかけ、ユダは彼らに身を売り渡した。人の感覚をほしいままにできる力を利用して、弟子達の心を騒がせ、動揺させた。
それは、闇の力の支配する時。イエスに対してだけではなく、使徒、群衆、大祭司に対しても働きかける力を得たのだ。人々の憎しみをかきたて、群衆を扇動したのは、彼らだった。群衆の「十字架につけろ」という叫びは、その憎しみの働きの成果だった。
カルワリオへの十字架の道行き、三時間続いた十字架刑は、彼らの作り出した憎しみの雰囲気の中で展開していった。
悪魔は勝利をおさめ、キリストは死んだ。
復活すると言っていたが、本当だろうか?
うそつきで、うその父である悪魔は、皆自分のようにうそつきだと思っているのではないだろうか?どうであれ、悪魔は、全力を尽くして復活を阻止しようと試みる。キリストが復活せぬように、身体が取り去られることのないようにと、墓を守るための番人が置かれる。番人達よりも大勢の悪魔がそこに集まってくる。一度は打ち負かしたキリスト、このすばらしい獲物をみすみす取り逃すことのないようにと。
こうして悪の力はマリアをも取り囲んでいる。立ちつくす最後の力、生ける最後の砦の周りを。聖母にくらべれば、他の人間達、弟子達でさえ、取るに足りない。「悪」は、今マリアをも打ち負かそうとしているのではないだろうか?
苦しみの剣で胸を貫き、息絶えさせようと計っているのではなかろうか。一人の母親がこれほどの悲惨を生きのびることができるのだろうか。
こうして悪魔は、幻を生じさせ、雰囲気をかき乱そうとするが、マリアの心を乱すことはできない。なぜなら、マリアは無原罪の御やどり、悪の力にはつかみ所のない方であるから。罪によって心の奥底に潜む力は、マリアには存在しない。それで彼らもマリアに手を出すことはできないのだ。だが、彼らはこの世の王。この王は、そこにいるだけで、周りの空気をかき乱す。それはマリアにも感じとれる。十字架のヨハネが描写したように、霊から霊へと働きかけ、嫌悪感を引き起こす恐るべき存在。マリアはそれを感じ、心の苦しみは増してゆく。悪魔はこの世の主。そしてこの時、自分の力と権力をみせつける。
聖母マリアよ、この恐るべき悪の力を感じ、あなたは、信仰によって、魂の深みへとのがれてゆかれる。こうして信仰の闇へと分け入り、希望のうちにそこで静かにとどまっておられる。
Stabat Mater, 母は立つ
カルワリオの丘のように、あなたは立っておられる。
魂の静けさのうちに、この態度を保っておられる。
慰めようとおそばに来た私たちの方が、いつかあなたの姿から教えられている。静けさ、平和、輝くばかりの清さ、そしてその姿にあらわされた力によって。
聖母マリアよ。昨日十字架上で語られた「これはあなたの母です。」というイエスの言葉の効果と力を、今日すでに見せてくださる。
あなたはまことに私たちの母。
慰め手となりたかった私たちも、あなたの態度を見、そこから作り出される雰囲気、輝き出る光と平和にひたると、もう一つのことしか願えません。
それはあなたの子供となること。
聖母マリア、聖土曜日の母よ。
私たちの魂に、「この日」を印として刻んでください。
この時、あなたから輝き出るものを、心に留めておくすべを教えてください。
あなたは、わたしにとっていつも優しい母でした。
そのあなたが、これほど大きく、気高く、力強く見えたことはありません。
そしてこれほど痛ましく見えたことも。
なんと貴重な教え! あなたへの信頼と希望の教え、それはわたしたちの人生を導く教えとなることでしょう。
昨日私たちは、あなたの母性に参与することを望みました。それは、あなたの祈り、苦しみ、イエスとの一致へと参与することを望むことでした。
こうして、あなたは、実りがもたらされるためには、どのように苦しみを担えばよいのかを教えてくださる
今日、あなたの教えて下さることが、深く心に刻みつけられるように、あなたのおそばに留まりましょう。
あなたに習うとは、
苦しむこと、苦しみにおしつぶされそうになっても、
生き生きとした希望を持っていること。
人間的な支えもなく、客観的にみれば絶望的に
思われるときでさえも。
そのとき、希望は、神の言葉、イエスの言葉、赤裸の信仰にのみ、
より頼むからです。
この赤裸の信仰、無一物となった希望によってこそ、復活の神秘の中に入ってゆくことができます。こうして、希望が大きくなればなるほど、復活された主から湧き出るいのちの水の泉からふんだんに飲むことができます。マリアよ、それはとりわけ、神のあわれみの愛と、あなたの慈しみによるのです。
聖母マリア、明日、すでに今晩、復活されたキリストの生命の母となってください。私たちの愛するすべての人、教会、そして世界中の人々のために、ひとりひとりの母となってください。世界中があなたから輝き出る平和にあずかることができますように。
日本語訳:片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
Marie, Esperance dans la nuit
In Jésus contemplation du Mystère Pascal, P.Marie Eugène de l’E.J.
(Meditation du Samedi Saint, 13 avril 1963.)