聖なる過ぎ越しの三日間を主と深く一致してお過ごしいただけるよう、
福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父のお説教やメディテーションを連続してお届けします。
今回は、1964年3月27日 聖金曜日の十字架の道行き です。※青年黙想会用に抄訳・編集したものです。
※YouTubeに音声で載せました十字架の道行きの元となった原稿です。
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主イエスよ、ピラトの法廷から、カルワリオの丘へ至るそう遠くはない道のりを、今共に歩きはじめます。
ご一緒にこの道を歩かせてください。そして、みちすがら、あなたが感じておられることを教えてください。
そこで起きている出来事を眺めるのではなく、あなたの事が知りたいからです。
人となった神のみことばである、あなたの心を知りたいのです。
あなた自身をわたしたちに示してください。
第1留 イエス、死刑の宣告をお受けになる。
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架
につけるために引き渡した。(マタイ 27.22,23,26)
黙想
死刑の宣告は、だいぶ前から、大祭司らによってくだされ、ピラトがそれを認めました。この判決を、あなたはどのように受けとめられたのでしょうか。 あなたは、いのちを与えるかた。いのちそのもの。
そのあなたに、この世の権力は、死の判決をくだしたのです。
死の判決をうけて、あなたは、身体も魂もゆさぶられ、ふるえている。
神であるあなたは、同時に人でもあるという事実が、
わたしたちの目にはっきりとつきつけられるのです。
なんという神秘。
この死という現実は、わたしたちにもいつか訪れます。
あなたが、死を前にしてゆさぶられ、ふるえたように、
わたしたちもまた、おそれ、身震いすることでしょう。
わたしたちは、この命を愛しているからです。
あなたが死を受け入れられたように、
わたしたちにも死を受け入れることを教えてください。
そして、死のありのままの姿を見ることができるようにしてください。
死は、決して全ての終わりではなく、本当のいのちへと入ること。
そのとき、門はひらかれ、帳は裂け、あふれる光の中へと入ってゆくのだということを。
第2留 イエス、十字架を担われる
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部 隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前 にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、
十字架につけるために引いて行った。
黙想
死刑の刑具である十字架が運ばれてきます。
この十字架は、大いなる苦しみのシンボル。
主よ、あなたは、この十字架を抱きかかえられる。
あなたが、触れ、運び、釘づけられたことによって、十字架は、このとき以来、
わたしたちの大きな希望となりました。
主よ、この十字架を拝みます。
そして、わたしたち一人一人に与えられた十字架も拝みます。
わたしたちに与えられた試練、苦しみ、そして死は、わたしたちにとっての十字架です。
日々の生活の中で、人間関係や仕事の中で、奉仕の中で、出会う全ての苦しみ、
これらすべてをあなたと共に、受け入れます。
あなたの苦しみと結ばれた、試練や苦しみは、豊かな実りをもたらします。
こうして、互いに結びあわされたすべての十字架は、一つの大きな力になるのです。
教会は、あなたの十字架とわたしたちの十字架の交わりによって、築き上げられるからです。
イエスよ、あなたの十字架を拝みます。わたしの十字架を拝みます。
第3留 イエス、初めてお倒れになる
4:彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み
であったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれ
たから/彼は苦しんでいるのだ、と。
5:彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち
砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らし
めによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、
わたしたちはいやされた。
6:わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行っ
た。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
(イザヤ53/4−6)
黙想
イエス、あなたは、早くも倒れられる。
ひどいむち打ち、茨のかむり、人々からうけた暴力であなたは、すでに疲れ果てておられた。そして、心の苦しみ、あらゆる辱めが心にも重くのしかかる。
偉大なる教師、奇跡を行う預言者、神である主は、今、極悪人のように扱われ、人に嫌悪されている。ほんの数日前には、みなあなたに歓声をおくり、王にしようとまで望んでいたのに。今、手のひらを返したように、まわりには、あざけりとにくしみしかない。
敵はすべて、ぐるになった。大祭司たち、ピラトの兵士達、そして、十字架につけろと叫ぶ群衆、みながぐるになってしまった。
人々の憎しみは、あなたの心の奥底までしみ通る。
愛に敏感なあなたの心は、憎しみにも敏感だった。
こうして全てが重荷となる。心は、闇でおおわれる。
目に見えるもの、感じられるものは、憎しみばかり。
天は閉ざされ、弟子達も皆逃げ去ってしまった。
そんなあなたの姿を見つめます。
もはや人とは見えないほど、傷だらけの身体で、
やがて、傷口はひらき、血がしたたり落ちる。
暗闇が、ちがづき、群衆は周りで、イエスをあざけり続ける。
その憎しみとあざけりの中をイエスは歩いてゆかれる。
第4留 イエス、み母にお会いになる
シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。——あなた自身も剣で心を刺し貫かれます——多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。(ルカ 2/34,35,51)
黙想
イエスよ、力尽き倒れてしまったあなたを、兵士が乱暴に引き起こす。
そして、目を上げると、母マリアがそこに立っておられる。
マリアは、あなたの奇跡や成功の場面には、一度もおられなかった。
でも、今あなたが力尽き、もはや人とも見えなくなってしまったとき、
その場所に母は立っておられた。
二人は見つめ合い、互いの苦しみのまなざしは、魂の奥底にまで届く。
マリアのまなざしは、イエスの心のうちをすべて見通される。
30年前から知り尽くしてこられた心のうちを。
父である神と、そのみ旨に対してイエスが抱いておられる愛を、マリアは、知っておられる。 マリアも、その神のみ旨を受け入れ、全て理解することなく、その神秘を受け入れて生きてきた。
だが、今このとき、このみ旨がいかに苦しみに満ちたものに感じられることだろうか。 マリアは、今度もみ旨を受け入れる。
イエスが救い主であるところどこにでも、マリアはこの奉献を通して母である。 マリアよ。カルワリオへと向かう道のほとりにしばしたたずんでおられるあなたの姿を見つめさせてください。
神の母、恵みの母だからこそ、こんな悲惨な光景を耐えることができたのでしょう。
あなたのまなざしをください。あなたのイエスへの愛、父なる神への愛、そしてみ旨への愛をわたしたちにください。あなたのように全てを受け入れる心をわたしにもください。
あなたに似たものとなりたいからです。
あなたのように人々の母になりたいからです。
第5留 イエス、キレネ人に助けられる
兵士たちは、出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた
黙想
イエスが、あまりにも疲れ切っておられるので、兵士達は、途中で倒れてしまうのではと心配しはじめる。 そうなったら、困るなと。
そこで、周りの人間を使うことにする。
そこに、粗末な服装の農民が一人いた。おそらく昼ご飯のために家にでも帰るところだったのだろう。兵士は、男をよびとめ、身振りで、十字架をかつぐようにと合図する。
男は抗議する。
「こんなはめになるとは!おれが十字架をかつぐなんて、とんでもない!
おれは罪人じゃない。何をしたっていうんだ。あんまりじゃないか。」
だが、兵士達は、力づくでせまり、ついにキレネのシモンは、それに従う。
十字架を取り、イエスのかわりにそれを担う。
シモンには、このことの意味がまったくわからなかった。
わたしたちも、十字架を担わされる時、その意味がわからないように。
わたしたいも、シモンのように、抗議してしまう。
「なぜ、こんな十字架を背負わされるのか」と。
だが、主よ、あなたは、その限りないいつくしみによって、わたしたちの抗議に負けず。
時に、立派な十字架を与えてくださる。
わたしたちが、もっと愛深きものとなり、使命を果たし、実を結ぶために必要な十字架を。 「苦しみを知らないものは、何も知らない」のだから。
第6留 一人の婦人、イエスのみ顔をぬぐう
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前
に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿も
ない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知って
いる。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視
していた。
黙想
イエスは、こうして歩んでいかれる。
あざけりはやむことなく、兵士達の暴力もやむことはない。
ところが、そこに一人の勇気ある女性があらわれる。
家から出て、近づくことができないため、イエスに布きれをなげてよこす。
イエスは、その布を広い、顔と手をぬぐわれる。
血と汗にまみれた、その顔を。
布は、女に返され、女は、宝物のようにその布を持ち帰る。
家に帰ってみると、布の上には、イエスの面影が写しだされていた。
それが、女の勇気ある行為、愛のわざの報い。
イエスよ、わたしたちのうちにも、あなたの面影をきざみこんでください。
愛と苦しみの面影を。
第7留 イエス、再び倒れる。
神の力、神の知恵とは、キリストのことです。なぜなら、神の愚かさは、人間より賢く、神の弱さは、人間より強いからです。(1コリント、1.24-25)
黙想
主よ、あなたは、また倒れる。
力強き神でおられる方が、また地に伏しておられる。
大切な使命を果たしておられるというのに、力はますます衰えてゆく。
イエス、痛ましい姿をあなたをおがみます。
あなたの力と、あなたの弱さをおがみます。
神の霊はあなたを離れ去ったのでしょうか?
いや、むしろ、この弱さこそが、神の霊がともにおられるしるしです。
わたしたちが力尽き果てて倒れてしまう時に、
主よ、弱さの意味を教えてください。
弱さを味わい、倒れてしまうことが、
信頼の土台となり、聖霊の助けを呼ぶことにつながることを。
第8留 イエス、エルサレムの婦人たちに語りかける。
大勢の民が、イエスの後について行った。その中に、イエスのことを嘆き悲しむ女たちがいた。
黙想
群衆の中にも、同情があることに、イエスは気付かれる。
それは、ガリラヤからイエスに仕え、エルサレムまで上ってきた婦人たちだった。おそらく、事の早さに驚き、一緒に集まって、カルワリオまでの道を一心に歩いてきたのだろう。
イエスの変わり果てた姿を見て、婦人達は泣いている。
そこで、イエスは、婦人達に話しかけられる。
「わたしのために泣かなくてもよい。むしろ自分自身のため、自分の民、エルサレムのために泣きなさい。彼らは自分が何をしているかわからないのだから。」
主イエス、あなたは、神のみことば、
あらゆる時代のための神のみことば。わたしたちの魂に語りかける神のことば。主よ。耳をすましています。どうぞわたしたちの心を開いてください。
第9留 イエス、3度倒れる。
わたしには、受けなければならない洗礼がある。それが成し遂げられるまでは、わたしはどんなに、苦しい思いをすることだろう。 (ルカ.12/50)
黙想
カルワリオへの道も終わりに近づき、十字架刑の場所が目に入ってくる。
その場所で、なされている準備を見て、あなたは、うちひしがれ、
心は、暗闇でおおいつくされる。
3度、倒れるあなたを拝みます。
あなたは、地にひれふす罪人の姿をとっておられる。
わたしにも、同じ姿をとることを教えてください。
神殿のすみでひれ伏す徴税人のような姿を。
わたしも、罪人だからです。
罪なきものでありながら、罪人のようになられたあなたは、
世の罪を背負う神の子羊。
第10留 イエス、衣服をはぎとられる
兵士達は、イエスの上着を4つに分けて、めいめい一つずつとった。こうして「彼らは、私の衣服を分け合い、着物をくじ引きにした」という聖書の言葉が成就した。(ヨハネ、19/23−24)
黙想
十字架刑の準備が始まる。兵士達の中には、この仕事を専門にしている者がいる。彼らは、特別の道具を並べてはじめる。
彼らは、キレネのシモンから十字架をとりあげる。
あなたの着物は、彼らの取り分になる。それで、いち早く着物をあなたから乱暴にむしりとる。傷口がはりついていようが、おかまいなしに。
大群衆の前に、あなたは、裸でさらされる。
血まみれの身体、むち打ちの傷があらわになる。
身体のすべてに、受けた暴力の後が刻まれている。
腫れ上がった顔、涙のあと、全身は汗とほこりにまみれている。
イエスよ、こうやって、あなたは、わたしたちの犯す肉の罪をつぐなわれる。
したたりおちるあなたの血と、汗と、その傷口によって、
どうぞわたしたちを罪から清めてください。
あなたの清さをわたしたちに与えてください。
第11留 イエス、十字架につけられる。
そこで、人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に、一人は左に十字架につけた。民衆は立って見つめていた。(ルカ23.33-35)
黙想
兵士達は、手慣れた様子で刑の執行にかかる。
まもなく、イエスは十字架にかけられる。釘が手足に打ち込まれ、十字架は立てられる。
主よ、十字架上のあなたを拝みます。あなたは、その場所から、群衆を、世界を見下ろしておられる。あらゆる時代の世界を治められる。
イエス、十字架上のあなたを見つめます。
力尽き崩れ落ちる身体。それをひきあげようと息苦しさにあえぐ胸。
十字架は、いつもひとつのスキャンダル。
受け入れがたい躓きの石です。
十字架を受け入れ、その言葉の意味を理解するのは、
なみたいていのことではありません。
それでも、「十字架のことば」は、わたしたちへのメッセージ。
今の時代、そしてあらゆる時代の十字架につけられた人々のために祈ります。
その人々に、あなたの十字架の意味をときあかしてください。
第12留 イエス、十字架の上で亡くなられる。
イエスは、酸っぱいぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言って、頭をたれ、霊をお渡しになった。(ヨハネ19.30)
黙想
3時間が過ぎた。この長い3時間の間、イエスははりつけになっている。
苦しみ、窒息しかかっている時には、数分でさえ、長く感じられるというのに。
地上には暗闇が広がる。兵士達は十字架のもとに座っている。
食べたり、無駄話をしながら、十字架を見守っている。
聖なる婦人達の中で、最も勇気あるものが十字架に近づく。
聖母マリア、そしてマグダラのマリアも。使徒ヨハネも密かに忍び寄る。
十字架の下で、あなたを見つめ、耳を澄ましている。
そしてあなたの言葉を書き留める
「渇く」
「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちが何をしているのかわからないのです」
そして、マリアに向かって
「婦人よ、これはあなたの子です」
ヨハネにむかって、「これは、あなたの子です」
それから、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ
私の神、私の神、どうしてわたしを見捨てられたのか。」
それは、あなたの嘆きの声、絶望にも近い心の嘆き。
そして、最後に
「すべては成し遂げられた」
「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」
そして、息をひきとられる。
あなたの最後の息をいただき、その息吹にのって、父のもとにゆかせてください。わたしの魂も、あなたの息吹に運ばれてゆきますように。
神の息、イエスの息吹、
その息吹をおしいただき、自分のものとしたいのです。
第13留 イエス、十字架よりおろされ、み母にゆだねられる。
アリマタヤのヨゼフという人が、ピラトのもとに行き、イエスの身体の引き渡しを願い出た。(ルカ23.52)
黙想
イエスは、こうして息を引き取られた。
それを明らかに示すために、百人隊長は、イエスの脇腹を槍で突き刺す。
するとそこから、血と水が流れ出た。
イエスは確かになくなった。ヨハネは、槍の一突きとそこから出た血と水を見たのだから。この血と水は、イエスのみ心から流れ出る「いのち」のシンボルになる。
許可を得たアリマタヤのヨゼフがやってくる。さまざまな人々の愛と配慮につつまれてイエスの身体は十字架からおろされる。
その身体は、誰よりも先にマリアにゆだねられる。
十字架の下で立っておられた母は、息子の身体をひざに抱くために、
今初めて腰をおろされる。
母のまなざしで、マリアは、この身体をながめつくす。
一つ一つの傷の深さを探り、その場所に手を触れる。どれほど、苦しかったことか。顔を頭全体を覆う傷、むち打ちの傷、そして脇腹をつきさした槍の傷も。
この痛ましい光景の中で、マリアよ、
あなたの心には、イエスの十字架上の言葉が刻まれている。
「これは、あなたの母です。」
その言葉は恵みのことば。
この言葉は、マリアの心に新しい、大きな愛情を注いだ。
世界中にひろがってゆく、母としての愛情、キリストの身体である教会の母としての愛情を。
マリアよ、あなたはわたしたちの母です。
イエスを殺した人々も、母マリアのことは忘れていたのです。
恵みの母、教会の母マリアを。
マリアよ、いのちの母、いのちの聖母。
わたしたちを本当にあなたの子にしてください。
あなたの子、イエスに習い、あなたに習って生きてゆくことができますように。
第14留 イエス、墓に葬られる
そして、ヨゼフはイエスの身体を亜麻布につつみ、まだ誰も葬ったことのない岩に掘った墓に納めた。(ルカ23/53)
黙想
時は、せまり、日は落ちかける。アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスの身体の身繕いをし、没薬を入れ、包帯で巻き、亜麻布の中に包みおさめる。
マリア。あなたはこの支度を手伝っておられる。
この勇気ある男達は、イエスの身体を持ち去る。そこには、ヨセフがもっている墓があり、彼らはそこに身体を納める。
マリアは、その行列に従ってゆく。日は沈み、墓の入り口には大きな石が転がされた。今や、あなたは一人きり。イエスはもういない。イエスは死に、すべてなくなってしまった。イエスのすばらしい業も、宣教の実りも、使徒のグループも。
これらすべてが、マリアの心に重くのしかかる。わたしたちもその重みをあなたと共に担いたい。あなたには、まだ復活の喜びが知らされていないのだから。全くの闇の中で、あなたには、一筋の光もない。
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マリアよ、あなたは、私たちの唯一の生ける希望。
全てが失われた時も、あなたと共に、信仰、希望、愛を生きることを教えてください。
あなたの心を通って、わたしたちをイエスの心へと導いてください。
あなたのイエスへの愛をわたしたちにも与えてください。
抄訳・編集:片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
Obéissant jusqu’à la mort de la croix
In Jésus contemplation du Mystère Pascal, P.Marie Eugène de l’E.J.
(Le chemin de croix du vendredi saint, 27 mars 1964 )