三位一体のエリザベット(3) 希望を生きる(後半)

2016年6月10日

2010年に掲載しました福者三位一体のエリザベットを再掲載しています。今回は第6回目 執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 伊従信子さんです。

※今年の3月3日にバチカンにおいて教皇フランシスコは、福者三位一体のエリザベットを列聖すると発表されました。列聖式の日取りが決まりましたら、このHPでもお知らせ致します。

 

カルメル会入会前のエリザベット

押し寄せる困難、失望しているとき

「あなたの愛の辞書から<失望>という言葉を消してしまわなければなりません。あなたの弱さ、押し寄せる困難を感じたり、主がますます隠れてしまわれるように思われるときは、むしろもっと喜んでください。」  『泉』59p

自分の弱さ、困難を感じ、神はますます遠くにおられるように思われるときにこそ、もっと喜んでください、とエリザベットはある婦人に書き送っています。そんなことがはたしてできるでしょうか。ここで重要なのは「あなたの愛の辞書から失望という言葉を消さなければなりません」という言葉です。

愛の辞書とは、父なる神が「私たちが罪人であったとき、おん子をこの世に遣わされた」愛、無限の慈しみの愛にほかなりません。その果てしない愛に希望を置くのだとエリザベットは教えています。多くの場合、私たちは自分の可能性の限界に行き詰まり、失望してどうすることもできなくなってしまいます。神に祈っても、いっこうに道が開けそうにありません、すべての道が閉ざされているように思われます。

「天におられるおん父が、ご自分に求められるものに良いものをくださらないことはない」との信頼をさらに深めるのです。たとえ自分の計画、プログラムが実現できなくても、自分にとって不条理としか思われない出来事が重なったとしても、その闇の向こうにおん父の慈しみの愛を信じ、そこに希望するのだとエリザベットは体験から教えています。こうして<失望>を愛の辞書から消すのだと。そのとき、私たちは次の言葉を聖パウロと共に味わうことでしょう。

「あなたには私の恵みで足りる。弱さにおいてこそ、恵みの力は余すところなく発揮されるからである」 Ⅱコリ12・9

「キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで私は自分の弱さを誇ることにします」 Ⅱコリ12・9

 

空虚感に陥っているとき

「おそろしいほどの空虚感に陥っていらっしゃるこの悲しむべきときに、神はあなたに無制限の委託と信頼を要求していらっしゃるように思われます。それは神があなたの心のうちにご自分を受けいれさせるために、もっと大きな可能性、ある意味で神ご自身のように無限とさえいえる可能性を掘られるからだと思ってください。あなたを十字架にかけるそのみ手の下で、感覚的には喜べなくても、まったき信頼のうちにすべてを委ねてください。そして一つひとつの苦しみ、試練をあなたをご自分に和合させようとして直接送られる神からの<愛のあかし>とみなすようにとあえて申し上げましょう。」 『泉』

私たちが神に信頼して委ねるのは、<私の計画>、<私の願い>を神が聞き入れ、実現してくださるからではありません。自分に理解できない出来事、自分の計画にない事柄のうちにも、神の慈しみの愛を信頼し、神の愛に希望をおいて生きてゆく・・・・・こうして果てしない神の愛へと心を広げて、「神ご自身のように無限とさえいえる可能性」に私たちは開かれていくのです。神への希望にはこの無限の可能性が秘められています。

「神のまなざしのもとに、主とともにすべてのことにあたるのです。するとつまらないことは何もなくなります。最も平凡なことをしていても、そのことのうちに生きているのではなく、それを超越してしまっているのですから。霊的な人とは、すべてのことに神のみ手を見、決して二次的事柄にとどまらない人のことです。このような人にとって生活はなんと単純なのでしょうか。至福直観にすでに生きている人たちの状態に近く、自分自身とさらにすべての物事から解放されていることでしょう。」 『光』102p

このように神の慈しみの愛に信頼し、希望して生きてゆくとき、私たちはもはや日々の出来事を一喜一憂して生きるのでなく、物事の真髄を見据えて神の現存・神との親しさに生きて、神の慈しみの愛に変えられて生きるようになります。もはや二次的事柄に留まらない人、霊的な人となるのです。

『泉』 =『いのちの泉へ』 伊従信子編・訳:エリザベットの神の現存の実践

『光』 =『光、愛、いのちへ』 伊従信子編・訳:エリザベット最後のことば

『あかつきより神を求めて』伊従信子著 :エリザベットの生涯

「カルメル誌」2004-夏