テレサとテレーズ(6)

2016年4月8日

東京教区カトリック関町教会 テレジア祭2015の企画の一つとして
昨年9月27日に片山はるひが『テレサとテレーズ』というテーマで講話を行いました。
その講話を10回に分けてご紹介していきます。

今回はその6回目です。

テレサとテレーズ

『テレサとテレーズ』(6)
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

魂の救いを祈るテレーズ

テレーズも同じです。

なぜカルメル会に入ったのか。彼女が最初に救おうとしたのは、プランジーニという名前の極悪人でした。彼がギロチンにかかることになったときに、「彼が悔い改めているというサインを何か見せてください。私は彼の魂の救いのために祈ります」と彼女は言って祈ります。すると、これは翌日の新聞で知るのですが、そのプランジーニがギロチンの穴に首を入れる前に後ろを振り向いて、司祭が差し出していた十字架を掴んでそれに接吻したのです。それは彼女が求めていたサインでした。この人は悔い改めた。ひとり地獄から救ったということです。

therese14aテレーズも戦う人だったということです。これは、カルメルの修道院でジャンヌ・ダルクの劇があったときに、テレーズが自らジャンヌ・ダルクを演じたときの顔です(カルメルでは、実は劇をやって楽しんだりもするのです)。

彼女はジャンヌ・ダルクが好きだったのですが、当時は無神論者との戦いがありました。教会の防衛のために、自分もジャンヌ・ダルクのように立ち上がるのだと。フランス革命のときには教会でもたくさんの殉教者が出ましたから、「世はまるで火事のようではありませんか」というのは、テレーズの叫びでもあったのです。

 

エリヤ的精神――祈りと活動はひとつ

旧約聖書の預言者エリヤは、偶像崇拝をするバアルの預言者たちを皆殺しにしたという出来事〔列王記上18章参照〕のために、激烈なイメージがある人ですが、エリヤの中に燃えていたひとつの思いがあります。それが、「神は生きておられる、その御前に私は立つ」という叫びです。すべての人たちがバアルという偶像崇拝へと行ってしまったときに、エリヤは立ち上がって、「我々の信じているイスラエルの神は生きている、その御前に私は立つ」と言います。ですから、預言者たちを皆殺しにするほどの熱意を持って立ちあがるのです。エリヤはものを書かなかった預言者です。ただ、行動で示した人でした。

ここに、エリヤがカルメル修道会の創始者だといわれる理由があります。アビラの聖テレサは16世紀に、この「生きている神」を、昔のように山に行ったり砂漠に行ったりすることなく、禁域という小さな砂漠を町の中に作って、そこで徹底的に神に祈る人を集めることを志したのです。そこにまたテレーズも魅かれ、入っていくことになるのです。ですから、カルメルにおける「祈り」と「活動」は実はひとつのことであり、これがエリヤ的精神と呼ばれるものなのです。

「神が生きている」という体験なしに私たちが何かをしても、何かはしているけれども神の恵みはそこには働かないのです。じっと祈っているだけだとしても、祈りがほんものであれば、それはあふれ出て使徒職として働くのです。

テレーズが「バラの雨を降らせましょう」「宣教師になって全世界に行く」と勇ましく言ったことはほんとうのこととなっています。今、彼女は本を通して、また聖遺骨を通して、さまざまな人に神の愛を伝えているのです。それは彼女の祈りがどれだけほんものであったかをもの語っていると思います。

(つづく)

〔2015年9月27日 関町教会聖堂にて〕

まとめ=関町教会広報部