イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために
~幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に~
講師 エマヌエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)
聖金曜日- 十字架の道行き
これは、彼の行なった十字架の道行きの黙想の最初の部分です。
『主イエスよ、ピラトの皇帝から、カルワルオの丘へ至る、そう遠くない道のりを今、共に歩き始めます。一緒にこの道を歩かせてください。道すがら、あなたが感じていることを教えてください。そこで起きている出来事を眺めるのではなく、あなたのことが知りたいからです。人となった神のみ言葉であるあなたの心を知りたいからです。あなた自身を私たちに示してください。』
イエスを愛するがゆえに、十字架の道のそれぞれのステップでイエスの全てを知ろうとします。イエスから全てを頂こうとするのです。イエスと共にイエスの受難に参与しようとします。
たとえば、十字架の道行きにはキレネのシモンが十字架を担うという場面があります。そこでマリー・エウジェンヌ師は、直接、キレネのシモンに語りかけます。
『シモンよ、あなたにはこの意味が分からなかったのだ。私たちも十字架を担わされるとき、その意味がわからないように私たちもシモンのように抗議してしまう。なぜ、こんな十字架を背負わされるのか・・・。だが、主よ、あなたはその限りない慈しみによって私たちの抗議に負けず、時に立派な十字架を与えてくださる。私たちがもっと愛深き者となり、使命を果たし、実を結ぶために必要な十字架を。なぜなら、苦しみを知らない者は、何も知らないのだから。』
イエスの最後の息
イエスが十字架で息を引き取った時、マリー・エウジェンヌ師は、本当にイエスの側に立っているかのようでした。私たちもその場所に招かれています。聖書の中で“イエスが息を引き取られた”と書いてあります。イエスの言葉、“父よ、私の霊を御手にゆだねます。”にある霊は、マリー・エウジェンヌ師にとっては聖霊です。そして彼はイエスのすぐ側で、この息を頂こうとします。これが師の祈りでした。
『イエスよ、あなたの最後の息をいただき、その息吹に乗って父のもとに行かせてください。私の魂も、あなたの息吹に運ばれていきますように。神の息、イエスの息吹、その息吹をおし抱き、自分のものとしたいのです。』
その受難と死によって、イエスは私たちに全てをくださいました。全てを下さったので、彼にはもう何も残っていません。そして、ご自分自身を私たちにくださったのです。父に全てを返し、私たち一人ひとりにも下さいます。イエスは、私たち一人ひとりに私たちの人生の意味を教えてくれます。なぜなら、私たちもイエスと同じことをするように招かれているからです。頂いた聖霊の恵みを持って、マリアと共に・・・・。
(つづく)