2010年に掲載しました福者三位一体のエリザベットを再掲載しています。今回は第4回目 執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 伊従信子さんです。
※今年の3月3日にバチカンにおいて教皇フランシスコは、福者三位一体のエリザベットを列聖すると発表されました。列聖式の日取りが決まりましたら、このHPでもお知らせ致します。
神はわたしのうちに わたしは神のうちに
主は、わたしたちのうちにおられるのですから、愛する友としてお相手いたしましょう。『いのちの泉へ』p13
「わたしのうちに住まわれる神」はわたしと関わりを持つことを望まれています。ご自分との親しさに生きることを望まれ、その親しさへと私たちを招かれているのです。
「わたしは地上で天国を見つけました。天国とは神のことで、神はわたしのうちに住んでおられます。このことを悟ってから、わたしにはすべてがはっきりしました。それで、わたしの愛する人々にこの秘密を知らせたいと思います。」p17
「すでに神とともにあるのですから、天国はこの地上ではじまっているのです。」
「わたしが天国をすでにこの地上で味わっていたのは、又わたしの一生に太陽の光がさんさんと注いでいたのは、<心の深みに住まわれる神>とのこの親しさからのものでした。」
神とともにあるところ、そこが天国であれば、すでにわたしは天国にいるとエリザベットは言います。そのように言うことができるほどに、神との親しさに生きていたのです。それゆえにこそ、彼女の二六年間の地上での生活には、さんさんと太陽の光が輝いていたと言ってはばかりません。実際には、エリザベットの死に至る病は大変厳しいものでした。けれども、自分の身にキリストの人性の延長を願い祈っていたエリザベットは、その苦しい日々にも、信仰の光のうちに「神はわたしのうちに わたしは神のうちに」と神との親しさを生きていたのです。
「天国は、わたしたちのうちにあります。なぜなら至福直観の光のうちに栄光を受けた人々を満たしてくださる同じ方が、信仰と神秘のうちにこの地上でご自分を与えてくださるからです。わたしは地上に天国を見出しました。天国、それは神ご自身であり、神はわたしのうちにおられるのです。」p18
神の現存に生きるとき、神とともにあるのですから、至福直観の光のうちに天国において栄光に満たされている人々とわたしたちも同じようであるとエリザベットは言います。
この地上では信仰のうちに、天国では至福直観の光において、神との親しさに生きるという違いはありますが。そしてこの信仰をわたしたちは死ぬまで深めてゆくことができ、それに応じて神との親しさの度合いも深まります。
「天国の人たちと同じように神が私のものであるとはすばらしいことだとお思いになりませんか。わたしたちは決して主から離れることなく、主から心をそらせてはなりません。わたしがすっかり主のものであり、主に導かれるままになれますようにどうぞよく祈ってください。」p19
「あなたは神の住まいである」という聖パウロの言葉を考えてみてください。聖三位は一日中、昼も夜もあなたのうちに住んでおられます。ご聖体のように聖なる人性はそこにはありませんが、天国ですでにあずかっている人々が拝している神はあなたの心のうちにおられます。何というすばらしい親しさでしょう。私たちは決して一人ぼっちでないのです。神があなたのうちに住んでいるというより身近においでになると考えるほうがおければ、そのようになさってください。重要なことは神とともに生きることですから。」p18
「わたしのうちに住まわれる神」との親しさに生きるとき、わたしたちは決して一人ぼっちではありません。どんなに長時間おしゃべりしても、どんな気晴らしをしても満たされることのない心の空洞・・・・それを埋められるのは神との親しさなのです。
「主があなたのうちに住んでおられることを明らかにしてくださいますように。それはなんと快く、甘美なことでしょう。この神の現存は、わたしたちに大きな力を与えてくれます。」『いのちの泉へ』p12
「神の現存とはなんとすばらしいことでしょう。心の深み、心の天国で主とお会いするのが大好きです。主は決してそこを離れられません。<神はわたしのうちに、わたしは神のうちに>――これこそわたしの生命です。」 p20
つづく
『いのちの泉へ』-神の現存の実践のために 伊従信子訳編、ドン・ボスコ社
『あかつきより神を求めて』-略伝、 伊従 信子著、ドン・ボスコ
『光、愛、いのちへ -エリザベットの最後のことば』伊従編・訳、ドン・ボスコ社
『三位一体のエリザベット』フィリポン著、ドン・ボスコ社