テレサとテレーズ(5)

2016年3月11日

東京教区カトリック関町教会 テレジア祭2015の企画の一つとして
昨年9月27日に片山はるひが『テレサとテレーズ』というテーマで講話を行いました。
その講話を10回に分けてご紹介していきます。

今回はその5回目です。

テレサとテレーズ

『テレサとテレーズ』(5)
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

多くの苦しみを抱えていた家族

このテレーズの両親は、模範的ではありますが、苦労のなかった人たちではありません。それどころか、お母さんは乳がんで亡くなり、お父さんは気がふれたと言われ、テレーズはどれだけ苦しんだか。テレーズは不登校児であり、心身症であり、落ちこぼれであったという話を去年〔テレジア祭の講演会で〕しましたが、テレーズの一家は、現代のありとあらゆる問題を抱えていた家族です。その家族がいろいろななか聖人となっていくのです。私たちがなぜテレーズに親しみを覚えるかというと、どんな人でも神に近づき、どんなに貧しく、弱さを抱えている人たちでも、それだからこそ神の愛を受け入れることができるのだ、その秘密をテレーズとその家族は身をもって生きていたからではないかと思います。

 

カルメル会の気風

ダンスさてそのカルメル会に入るわけですが、アビラのテレサのつくったカルメル会というのは、一度どこかに行ってご覧になるとおわかりになると思いますが、シスターたちがとても 明るい会です。この絵は、テレサ自身がカスタネットを持って踊っている姿を示しています。禁域をもつ、もっとも厳しい修道院のひとつで、厳しく沈黙を守り、当時は苦行もし、教会のために祈るという人たちなのですが、このような自由さや喜びを決して消さない、個性を消さない会なのです。普通はカルメル会というと、観想会で、禁域の中で静かに黙ってお祈りしているというイメージがありますが、全く逆です。朗らかで、笑いが絶えないようなところです。

 

「世はまるで火事のよう」

また“カルメルに行くと、ありとあらゆるニュースがわかる”といわれるようなところもあります。ありとあらゆるお祈りの意向が持ち込まれますので、観想修道会というのは、実は非常に世俗に通じているところでもあるのです。

「世はまるで火事のようではありませんか!」というのは、テレサの言葉です。テレサがなぜ修道院の創立を始めたのか。そのきっかけがこの叫びでした。当時は、ルターがプロテスタンティズムを始めた頃です。今はカトリックとプロテスタントは仲がいいのですが、当時は互いに教会を襲ったりする時代でした。そのなかで、教会が、神が冒瀆され、そこで人々が争っている……、それが「火事」です。

もうひとつの「火事」は何かというと、当時は世界中に宣教に行く時代でした。当時の考えでは、“洗礼を受けていない人は地獄行き”でした。ザビエルが日本に来たときに、大勢の人たちにともかく一生懸命がんばって洗礼を授けていたらだんだん手が下りなくなっていったという伝説がありますが、それは、洗礼を授けなければ人は地獄に行ってしまうと考えられていたからでした。このときのテレサも同じです。それまではそういう世界があることを知らなかったのですが、行ってみるとこんなにたくさんの人が毎日毎日地獄に行っている。そこで彼女はこう言うのです。

「この地獄にいるたったひとりの人を救うために、私は1000回死んでもいい」

どうしてか。

今日の福音書〔年間第26主日C年 マルコ9章38-43,45,47-48節〕を読んでこれだと思ったのですが、地獄のことが出ていました。

『自叙伝』をお読みになると出てきますが、テレサは地獄落ちの体験をした人です。それはひとつの神秘的な出来事です。地獄というのは場所ではないのです。場所ではなく、ひとつの魂の状態です。神から永遠に切り離されている状態のことを地獄といいます。神がいないのです。もちろん神が死んだわけではなく、ひとつの神秘的な体験なのですが、彼女は、神を愛さず神と全く関わりなく死んでしまうというのはどういうことか、それを自分で体験するのです。彼女はたくさんの病気をししますが、これほどつらい体験はなかったと言っています。

ですから、この思いをたったひとりの人にもさせてはいけない、ということから、徹底的に教会のため、滅びる人のため、自分はたったひとりの人のためにも、1000度命を投げ出すと言うのです。それは、自分のものすごく深い、忘れることのできない体験から来ているのです。

(つづく)

〔2015年9月27日 関町教会聖堂にて〕

まとめ=関町教会広報部