待降節とは、何かを「待つ」時ですね。
でも、私たちはいったい何を待っているのでしょうか?
この暴力と苦しみの多い世界にどんな希望があるのでしょうか?
今からほぼ2000年前に、小さな幼子が生まれた時も、
世界は、強い者が弱い者を平気で踏みつぶす世界、
小さな者たちの苦しみと叫びが満ちた世の中でした。
一体、神はいるのか? と多くの人々が救いを待っていました。
マリー・エウジェヌ神父は語ります。
「クリスマスを待ち望む私たちの「希望」は、
大きな喜びです。
なぜなら私たちが待ち望んでいるのは、一人の幼子。
ほほえみ、笑い、愛だけを伝えてくれる、一人の幼子だからです。
赤ちゃんを恐れる人は誰もいません。
だから、この幼子こそ、「わたしたちと共にいてくださる神」なの
神は、いちばん弱いものとしてこの世にこられました。
すべての人の友となるために。
だれもが、おそれずに近づくことができるように。
でも、その幼子は、いずれその小さな命をすべての人のために
投げ出して十字架の上で息をひきとります。
すべての人に自分の愛を伝えるために。
当時の強き者たちのことを覚えている人はもう誰もいません。
でも、ベトレヘムで生まれた時は、
誰一人その存在さえ知らなかった赤ちゃんの誕生を
今、私たちは世界中で祝っています。
その幼子の運んで来た愛は、今世界に伝わり希望の灯火となってい
「みこととばは、人となり、わたしたちの間に住まわれた。」
(ヨハネ1・14)
幼子によって与えられた希望を胸に、
この言葉を今日、繰り返し、味わい、祈ってゆきたいと思います。
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)