10月18日にバチカンにおいて教皇フランシスコにより、幼きイエスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)の両親が列聖されました。日本では余り知られていない、この2人の生き方と聖性を6回に分けてご紹介しています。今回はその6回目です。最終回です。
執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 中山真里さんです。
聖テレーズの両親 聖ルイ・マルタンと聖ゼリー・マルタン(6)
すべての人が愛の完成に召されている
わたしたちはルイとゼリーの結婚・家庭生活から、そして人の夫婦としての列聖から何を学べばよいのでしょうか。
まず、2人とも「教会博士 幼いイエスの聖テレーズ」の両親だから列聖されるのではないことを確認しておきたいと思います。たとえそのことが何かの影響を及ぼしていたとしても(人間の社会には必ずつきものです)、聖性はまったく個人のものです。2人とも結婚する前から個人として聖性を求めていました。そして当時、聖性は修道生活と結びつけられていたため、2人とも修道者になることを望んだのです。しかしその望みがかなわないまま、「雷にうたれたような」出会いを経て結婚し、自分たちにとって家庭を築くことが聖性への道だという確信を深めていきます。「すべての人が聖性に召されている」(『教会憲章』以下LG )とバチカン公会議が宣言するおよそ100年前のことです。
聖性とは愛の完成です。イエスにますます深く一致していくことです。「イエス自身が聖性の創始者また完成者」(LG40)だからです。とすれば、洗礼によってキリストに結ばれた「すべての人」がその対象になるのは当然のことです。わたしたちはみんな、「聖職位階に属している人も、それによって牧されている人も、皆聖性に召されて」(LG39)おり、「それぞれの生き方をもって愛の完成を追及」(同)しなければなりません。
ところで、「すべての人が聖性に召されている」、と公会議が宣言する一方、「聖性に達する多くの道」ということにも注意する必要があります。
聖性は唯一であるが、(…)キリストに従うすべての人々が、さまざまな生活のしかたと任務を通してそれをはぐくんでいる。(…)各自がそれぞれに与えられた固有のたまものと任務に応じて(…)信仰の道を一途に進む。(LG41)
キリストに結ばれて愛を完成させる、という聖性への招きはすべての人にとって同じであっても、それぞれの人は自分に与えられた「たまものと任務に応じて」聖性を追求するということです。つまり、キリストとの一致をどのように深めていくか、どのような愛の完成に召されているかは、それぞれ異なっているのです。
少しカタイ内容になってしまいましたが、ルイとゼリーの列聖は、今述べた公会議の言葉をそのまま表現するものだということをお伝えしたいと思います。
最後に
ルイとゼリーの列聖は、結婚生活がどれほど尊く、またどれほどの高みにまで至ることができるのかをわたしたちに示してくれています。そしてもうひとつ、彼らがはぐくんだ子供たちのことを考えずにはいられません。20世紀最大の聖人のひとりである彼らの娘、幼いイエスのテレーズは決して天から降ってきたものではありません。ルイとゼリーが全力を注いで築き上げた家庭のなかから生まれたものです。このことは聖性についてもうひとつの大切なこと告げています。聖性は個人です。しかしわたしたちはみんな具体的な歴史、社会状況そして家庭のなかで生きています。わたしたちは神への道をひとりで歩むことはできないのです。
おわり。
なかやま・まり