今年は日曜日と重なってしまいましたが、通常11月8日は カルメル会では、福者三位一体のエリザベットの祝日(任意)にあたります。
ドン・ボスコ社から出版されました、三位一体のエリザベットに関する 伊従信子さん訳・著の3冊は残念ながら品切れですので、これらに載っているエリザベットの言葉をここで少しご紹介致します。
2010年9月11日に掲載した文ですが、他にも過去に何回かエリザベットの言葉をHPに載せています。ご興味のある方は、このページの一番右下にある 『検索』 をクリックして、検索画面に 三位一体のエリザベット と入力しますと記事を選んで頂けます。
希望に生きる 三位一体のエリザベット(3) 2010年9月11日掲載より
エリザベットは初聖体のときに、「エリザベットとは<神の家>」と自分の名の神秘を知ってからは、「私は神のうちに、神は私にうちに」住まわれるという神秘を子供ながらに深めていきました。
もちろん、神秘ですから理解することはできません。けれども信じ、さらに深く信じるように生きました。今回はいろいろな日常生活においてどのように神に希望をおいて生きていたのか具体的に見てみてみたいと思います。
苦しみ、混乱しているとき
エリザベットは神の現存を深めていく過程において、カルメル会修道院へ入会したいと望むようになりました。しかし、母親は「二十一歳になるまでは絶対に入会を許さない」と強く反対しました。それだけではなく娘がその間カルメル会の修道女と会うことも禁じました。
エリザベットはまだ幼い時、父をなくし、母の手で育てられました。ですから母親にしてみれば、ピアニストとして才能があり、しかも魅力的で人々から愛されている娘が修道院に入ることは、確かに理解しがたくまた受け入れがたかったのでしょう。「21歳まで入会を待つように」と返事した母親には、時間がエリザベットの心を変えてくれることへの期待がありました。しかし、エリザベットの確固とした決心は揺らぎませんでした。「その歳」が近づくにつれ、母の心は動揺し、母と娘の対立は厳しさを増しました。エリザベットの将来は暗礁に乗り上げたかのようでした。こうしたときを経て、エリザベットは次に様な手紙を書きました。エリザベット22歳のときです。
「私はまだ若いのですが、時々ずいぶん苦しみました。すべてが混乱していたとき、<現在>は非常につらく、<未来>はなお暗く感じられたとき、目を閉じ、天のおん父の腕の中にやすらぐ子供のように自分を委ねました。」 『泉』60p
エリザベットはすべてが混乱していたとき<現在>は非常につらく、<未来>はなお暗く感じられたとき、目を閉じ、天の父に子供のように自分を委ねていたと言っています。確かに毎日は暗く、希望がないように思えたことがありました。しかし、そのように動揺するときにこそ、実は「子供のように神に委ねる」態度をエリザベットは培ったのです。「母親の腕の中にいるとき、太陽が照っているか、雨が降っているか、それほど心配しない子供」のように。
苦しみ、混乱のとき、神が私たちに要求されるのは、その真只中で、神のいつくしみの愛に単純な心で信頼することだと自分の体験からエリザベットは勧めます。彼女は自分にとってとても苦しかった時期この信頼と委託に生きてきたからこそ、神に希望して生きることを周りの人々に確信をもって伝えられるのです。
自分のみじめさに落胆するとき
エリザベットが残した手紙の中に、死を目の前にして書き終えた手紙があります。それは19歳のフランソワーズ・ド・スルドンに宛てたものです。気まぐれな性格のフランソワーズは、その性格の難しさ、激しさゆえにとても悩みました。こんな自分では愛するエリザベットが勧める「神は私のうちに、私は神のうちに」生きることはとてもできそうにありません。このことを七歳年上で姉のように慕っているエリザベットにたびたび打ち明けていました。しかし、エリザベットは自分の命がもういくばくもないことを感知して、フランソワーズに最後の言葉を残しました。
「永遠の光のもとに神はいろいろなことをわからせてくださいます。それを神からのものとしてあなたに伝えましょう。」
このように前置きして、エリザベットは「どうぞ犠牲・戦いをおそれず、むしろ喜んでください」とフランソワーズに書いています。でも・・・・・友達・家族とのかかわりをこんなに難しくしている自分の性格を、どうして喜ぶことなどできましょう。戦う?戦うよりは自分から逃げ出したいとさえフランソワーズは思っています。
「もし自分の性質が戦いの対象であるならば、どうか落胆しないでください。悲しまないでください。あえて言いましょう、あなたのみじめさを愛しなさいと。そのみじめさにこそ神はいつくしみの愛を注がれるのです。」 『泉』58p
「落胆しないでください。悲しまないでください」。もちろんそうできるなら、問題ありません。できないゆえに、どうしようもないお荷物を自分は抱えこんでしまっているのです。いったいどうしたらよいのでしょう、このみじめさからどのようにしたら、解放されるのでしょうか。自由への門の鍵、この鍵をエリザベットはフランソワーズに提供します。それは救おうとされるキリストへの信頼を深めることです。「あなたのみじめさにこそ、神はいつくしみの愛を注がれます」。
自分のみじめさを見つめて落胆するかわりに、みじめな、つまらない、罪深いものであるがゆえに、その泥沼から救おうとされるおん父のいつくしみの愛に信頼するのです。それゆえにこそ、おん子をこの世に遣わされたのですから。十字架上のキリストの想い・祈りは、神の子の<永遠の>祈りです。2000年前と同じに、今日も、明日も、私たち一人ひとりへのキリストの祈りなのです。十字架上のキリストが私たち一人ひとりのみじめさ、弱さ、罪に注がれるいつくしみの愛に信頼すること。この信頼を深めることによって、私たちは自分自身を神のまなざしで眺め、その愛に浴することができるようになります・・・・・私たち一人ひとりをいつくしまれる神の愛に。
<自分のみじめさ>とここでいうのは、神の美しさ、愛、偉大さの前での<自分のみじめさ>の認識のことです。私たちの周辺で耳にする<みじめさ>は、どんぐりの背比べによる自分のみじめさ、「あの人より私は・・・・・でない、・・・・できない」という<みじめさ>ではありません。このようなみじめさは、今日多く「出回って」います・・・・家庭・職場において、異なる共同体において、いろいろの人間関係において。日常生活の中で私たちの視点を神に置かない限り、<みじめさ>は延々とベルトコンベヤー上で廻り続けます。
「私たちを裁かれるその方が、私たちをいつもみじめさから救い出し、ゆるすために私たちのうちに住まわれていることを思い出すと本当に慰めになります。」
私たちはとかく自分が受け入れがたいこと(自分自身をも含めて)から目をそらそうとします。それだけではありません、神のまなざしからもそらそうとします。もちろん、実際には神のまなざしからそらすことはできないのですが。こうして<みじめさ>など存在しない<かのように>生きようとします。自分に見えていなければ神も見ておられないと思うのです。
大切なことは、自分のみじめさ、罪ゆえに神のまなざしを避けることではなく、むしろそれゆえにこそ、「私たちを助け、救い出そうとされる」愛に満ちた神のまなざしにさらすことです。ちょうど洗濯物を太陽にさらすと黄ばみや汚れが漂白されるように。私たちのみじめさ、弱さ、罪は神の愛のうちに洗われ清められます。
「主の足もとでマグダラのマリアがしたように、<自分のみじめさをさらけ出す>のです。そしてそのみじめさから解き放ってくださるように主に願ってください。主は私たちが自分の無力を認めているのをごらんになりたいのです。そのときこそ、偉大な聖人が言ったように<神の無限の深淵は、被造物の虚無の深淵にむかいあい>、神はこの虚無を包みこまれます。」 『光』100p
神に近づけば近づくほどに、もっと自分が清くすばらしくなると私たちは通常思います。こんなにお祈りをし、神に近づいたはずなのに、ますます「自分はだめ」という印象を強くします。実はそれがあたりまえなのです。私たちは神の清さ、愛のみ前に、自分の醜さ、汚れがさらに見えてくるようになるからです。「みじめさの深淵は、神のいつくしみの深淵をひきつける」のです。ますますこの二つの深遠は深まってゆくことになります。
押し寄せる困難、失望しているとき
「あなたの愛の辞書から<失望>という言葉を消してしまわなければなりません。あなたの弱さ、押し寄せる困難を感じたり、主がますます隠れてしまわれるように思われるときは、むしろもっと喜んでください。」 『泉』59p
自分の弱さ、困難を感じ、神はますます遠くにおられるように思われるときにこそ、もっと喜んでください、とエリザベットはある婦人に書き送っています。そんなことがはたしてできるでしょうか。ここで重要なのは「あなたの愛の辞書から失望という言葉を消さなければなりません」という言葉です。
愛の辞書とは、父なる神が「私たちが罪人であったとき、おん子をこの世に遣わされた」愛、無限の慈しみの愛にほかなりません。その果てしない愛に希望を置くのだとエリザベットは教えています。多くの場合、私たちは自分の可能性の限界に行き詰まり、失望してどうすることもできなくなってしまいます。神に祈っても、いっこうに道が開けそうにありません、すべての道が閉ざされているように思われます。
「天におられるおん父が、ご自分に求められるものに良いものをくださらないことはない」との信頼をさらに深めるのです。たとえ自分の計画、プログラムが実現できなくても、自分にとって不条理としか思われない出来事が重なったとしても、その闇の向こうにおん父の慈しみの愛を信じ、そこに希望するのだとエリザベットは体験から教えています。こうして<失望>を愛の辞書から消すのだと。そのとき、私たちは次の言葉を聖パウロと共に味わうことでしょう。
「あなたには私の恵みで足りる。弱さにおいてこそ、恵みの力は余すところなく発揮されるからである」 Ⅱコリ12・9
「キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで私は自分の弱さを誇ることにします」 Ⅱコリ12・9
空虚感に陥っているとき
「おそろしいほどの空虚感に陥っていらっしゃるこの悲しむべきときに、神はあなたに無制限の委託と信頼を要求していらっしゃるように思われます。それは神があなたの心のうちにご自分を受けいれさせるために、もっと大きな可能性、ある意味で神ご自身のように無限とさえいえる可能性を掘られるからだと思ってください。あなたを十字架にかけるそのみ手の下で、感覚的には喜べなくても、まったき信頼のうちにすべてを委ねてください。そして一つひとつの苦しみ、試練をあなたをご自分に和合させようとして直接送られる神からの<愛のあかし>とみなすようにとあえて申し上げましょう。」『泉』
私たちが神に信頼して委ねるのは、<私の計画>、<私の願い>を神が聞き入れ、実現してくださるからではありません。自分に理解できない出来事、自分の計画にない事柄のうちにも、神の慈しみの愛を信頼し、神の愛に希望をおいて生きてゆく・・・・・こうして果てしない神の愛へと心を広げて、「神ご自身のように無限とさえいえる可能性」に私たちは開かれていくのです。神への希望にはこの無限の可能性が秘められています。
「神のまなざしのもとに、主とともにすべてのことにあたるのです。するとつまらないことは何もなくなります。最も平凡なことをしていても、そのことのうちに生きているのではなく、それを超越してしまっているのですから。霊的な人とは、すべてのことに神のみ手を見、決して二次的事柄にとどまらない人のことです。このような人にとって生活はなんと単純なのでしょうか。至福直観にすでに生きている人たちの状態に近く、自分自身とさらにすべての物事から解放されていることでしょう。」 『光』102p
このように神の慈しみの愛に信頼し、希望して生きてゆくとき、私たちはもはや日々の出来事を一喜一憂して生きるのでなく、物事の真髄を見据えて神の現存・神との親しさに生きて、神の慈しみの愛に変えられて生きるようになります。もはや二次的事柄に留まらない人、霊的な人となるのです。
『泉』 =『いのちの泉へ』 伊従信子編・訳:エリザベットの神の現存の実践
『光』 =『光、愛、いのちへ』 伊従信子編・訳:エリザベット最後のことば
『あかつきより神を求めて』伊従信子著 :エリザベットの生涯
「カルメル誌」2004-夏