『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレーズ(テレジア)の霊性(8)

2015年7月21日

2014年9月28日(日)東京教区 関町教会において
ノートルダム・ド・ヴィ会員の 片山はるひ が
リジューの聖テレーズについての講話を行いました。
その講話を数回に分けてご紹介して行きます。

今回はその8回目です。

『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレジアの霊性
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

12.信仰の闇

そして、短い人生の終わりが来ます。23歳のときに肺結核を発病します。病床のテレーズ

♪小さな胸には 大きな願い

それはくるしみ わかち合うこと

この「わかち合う」というのは、たぶん私たちがミサの中で唱える信仰宣言の「聖徒の交わり」というところになるのだと思います。「聖徒」というと、私は違うなと思ってしまいがちですが、実はみんな入っています。洗礼を受ければ聖徒になるので、聖人でなくても聖徒ですから、これは教会が全部つながっていることを意味します。イエスを中心として網の目のように皆ひとつにつながっていて、そこでなぜ祈るのかというと、私の祈りがイエスにつながっているから他の方に届くのです。これは苦しみも同じだということを、テレーズは自分の生き方の中で発見していったのです。

テレーズは院長さまから、「あなたはこのふたりの兄弟の司祭を手紙で励ましてください、祈りを捧げてください」と言われ、ふたりの兄弟となりました。最後の最後、ほとんど何も書けない状態になったときに、震える手でそのふたりの司祭に宛てて手紙を書きます。疲れきったときに、神父さまたちのために歩くと言って、その歩いたことを捧げます。ですから彼女と宣教がどれだけ結ばれていたかということです。

これは、宣教とか使徒職というものが、何かをすることだけではなくて、根本は祈りであり、苦しみであり、それを捧げるということなのだということに結びついていくと思います。

これが今日のお話の中でいちばん直截的にテーマに結びついてくることかと思いますが、テレーズの小さき道はそれだけではありません。「信仰の闇」というのは非常に不思議なことに、確かに神からの特別の試練であり、同時に恵みとなる体験だと思います。

 

テレーズは喀血します。死ぬのだということがわかります。この人は死を恐れていませんでした。というのは、すごい信仰教育の中で育ちましたので、天国に行くというのは神さまのところに帰るということだ、自分は家族もいない、お父さんも亡くなっていて、姉妹はシスターになっている、天国に行けば実の兄たちにも会える、死は神さまとともにいることだ、と考えていました。聖パウロと同じです。パウロも、この地上にいるのは皆さんのためだけれども実はイエスさまとともにいたいと言っていました。

それが喀血をして死ぬのだということになりました。実は自叙伝をお読みになると、喀血をして喜びに溢れるのです。「死ぬのだ」ということで喜びに溢れた。ところが、死ぬことが確実になったそのときに、何かわからないけれども、「いや、天国なんかない、自分が行く先には虚無の闇しかない」と、それしか考えられなくなるのです。不思議な体験です。ただ同時に彼女にはこれが神からの何かなのだという感覚はある。でも、今まで思っていた「死ぬのだ、神さまのところに行くのだ」という喜びはゼロに、いやゼロ以下になります。死んだら虚無の闇があるという、まさに普通だったら絶望スレスレの思いです。

テレーズの最期の言葉は、お姉さんたちが克明に書きとめたものがありますが、ぜひお読みになるといいと思います。ギィ・ゴシエ神父さまがお書きになった『死と闇をこえて』(聖母文庫)という本です。私の回心の1冊ですが、このときのことで自叙伝に書かれていることで、無神論者が言っていることかと思われる言葉があります。

「進め、進め、喜べ、死ぬがいい、死んだあとにあるのは虚無の闇だけだよ」                          (自叙伝 314頁)

テレーズにはこの声が聞こえていたと書いてあるのです。テレーズはそこでやめます。これ以上書くと神さまへの冒瀆になるかもしれないと思ったからです。でもその声は最期までずっと聞こえていたのです。

つづく