『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレーズ(テレジア)の霊性(6)

2015年6月23日

2014年9月28日(日)東京教区 関町教会において
ノートルダム・ド・ヴィ会員の 片山はるひ が
リジューの聖テレーズについての講話を行いました。
その講話を数回に分けてご紹介して行きます。

今回はその6回目です。

『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレジアの霊性
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

10.小さき道

しかも当時カルメル会では、厳しい苦行をして、徳を積んで、そしてようやく天国に入れるかどうかというふうに、神の慈しみや愛よりも正義とか裁きが非常に強調されていた時代でした。フランスのジャンセニズムの影響です。その中で、テレーズには「違う、そうじゃない。神さまは裁きの神さまじゃない」という直観がありました。今の私たちにとっては当たり前のことですが、当たり前になったのはテレーズの自叙伝が広まったからなのです。テレーズの自叙伝は世界中に広まります。ものすごい勢いで広まります。1960年代に行われた第2バチカン公会議、今の教会を本来の教会の精神にもどそうと世界中の司教さまが集まって行われた会議の中で、テレーズの自叙伝の影響はとても大きかったのです。もちろんテレーズだけではありませんが、テレーズの自叙伝を読んだ人たちが、「そうだ、神さまは裁きの神ではなく愛の神だ」と思ったのです。これはテレーズの発見でした。自分の体験と祈りと、神さまが彼女に与えたミッション。周りでは、裁きがあって地獄があってという考え方が重んじられていた中での彼女の直観でした。彼女のこの直観がだんだんと「小さき道」というひとつの霊性に結晶していきます。

 

セリーヌと聖書の中の箴言に「小さき者なら誰でも私のもとに来なさい」(箴言9・4、自叙伝 邦訳277頁参照)とあります。テレーズは、聖書を読むうえで天才的な直観を持っていた人です。これは神学者たちが皆そう言っています。普通の人はぼーっと読んで、忘れたり意味がわからなかったりするのですが、テレーズは、聖書を読むということがそれほど普通のことではなかった当時に聖書を読んで、「これだ」と一番大切なことを発見した人です。この箴言の「小さき者なら誰でも私のもとに来なさい」を読んだときにテレーズは、「小さいときの私だ」と思いました。「小さき道とは何ですか」と尋ねられたときに彼女は言います。

 

それは、信頼とまったき委託の道です。その道とは、御父の腕の中に、何の恐れもなくまどろむ幼子の委託です。

神さまは私に無限の慈しみをくださいました。するとすべてが愛に輝いて見え、正義さえも愛に包まれているように思えます。ですから何も恐れることはありません。                                  

(自叙伝 277頁)

 

正義についての彼女の直観はすばらしいものです。神さまが正義であるというと、我々はこわいと思ってしまう。でも本当は正義とはどういうことかというと、神さまは私をつくった方であり、私がどんなに弱いかを知っている。この弱い私にとってフェアなのは、神さまがその弱さをわかってくださるということです。彼女が好きだったのは、放蕩息子のたとえでした。弟がぼろぼろになって帰ってきたときに、お父さんが駆け寄って抱きしめますね。お母さんのように抱きしめます。あれが神さまだ、ということです。ですから何も恐れることはないのです。

テレーズは、「恐れ」が非常にクローズアップされていた時代に、「恐れ」ではなくて「信頼」によって神さまのところに行ける、それはすべての人にできるということを伝えた人です。

そこで、「幼子というのはどういうことですか」と訊かれます。テレーズは、こう答えます。

 

自分の無を認め、幼子が親からすべてを期待するように、神さまからすべてを期待すること。また何をも思い患うなということです。

 

幼少 テレーズですから実は、幼子であるということは結構厳しいのです。我々はいっぱしの大人なので、ものをあれこれして安心しようとします。ところがテレーズは、お姉さんのセリーヌが入ってきて「いっぱい獲得しなければいけないことがあるの」と言ったときに、こう言います。「獲得するんじゃなくて、失うとおっしゃい」

ですから、いっぱいものを持ってそこで安心するのではなくて、無を認めるということです。これは結構難しいことです。我々は精神的にもたくさん持ちたがるものですが、無を認め、認めたときに神がすべてをくださる、というのです。

つづく