『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレーズ(テレジア)の霊性(1)

2015年4月20日

2014年9月28日(日)東京教区 関町教会において
ノートルダム・ド・ヴィ会員の 片山はるひ が
リジューの聖テレーズについての講話を行いました。
その講話を数回に分けてご紹介して行きます。

『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレジアの霊性
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

はじめに

さきほどご紹介にあずかりましたように、私は、ノートルダム・ド・ヴィという会に入っております。この会は、創立者がカルメル会士であり、小さきテレーズの霊性を生きることを修練のときからたたき込まれてきます。私もこの会に入ってからずっとテレーズとともに、テレーズに手を引かれて歩んできた気がします。

さきほどのミサの終わりに「フレンズ」という歌を歌いましたが、まさにテレジアは私にとってフレンドです。その親友を皆さんにご紹介して、その中で少しでも新しいことを発見していただき、さまざまな言葉を味わっていただくことで、テレジアが皆さまおひとりおひとりにとってもっと友だちのようになれば幸いです。

 

1.静かな絶望の時代、希望の霊性

きょうのお話の題は、初め「『闇夜』を貫く光」でしたが、『闇』にしました。というのは、闇というものは夜だけではないからです。最初に「題を」と言われたときに思ったのは、新聞を読んでもテレビを観ても、あまり明るくない時代だということです。それは私たちの心の闇ということもあると思います。お天気で、いい時代であっても、人生の中にはさまざまな出来事があります。その中で、やはり「私の心の中に闇がある」。そのときにテレジアという聖人が何を語ってくれるのか、ということです。

 

テレジア1

私も人並みくらいの苦労はしてきたかなと思います。その中で、とくに「もうだめだ」とノックダウンしそうなときにいつも支えてくれたのが、このテレジアという人でした。ですからそういう意味で、ただ夜だけではなく昼間にもある、人生の中にある闇の中で、テレジアという聖人がどのように支えてくれるのか。そんなことを思いながら話を進めていきたいと思います。

 

2.テレジアとマザー・テレサ

まず、最初に「テレジアってどこがすごいの?」「何をしたの?」ということです。

そこで、マザー・テレサの言葉を読んで味わってみたいと思います。

 

私の一生を通じてテレジアはとても大切な存在でした。そして私のモデルになってくれると思ったとき、深い幸福感を味わいました。テレジアは私の家族のようにいつも私の近くにいます。多くの聖人は、私たちを導いて下さいます。でも私が愛するのは、テレジアのように単純な人たちです。私が彼女の名前を選んだのは、平凡なことを非凡な愛でもって行ったからです。

 

ご存じと思いますが、マザー・テレサの「テレサ」はテレジアです。彼女がシスターになったときに、昔は修道名が必要でした。そのときに彼女が迷わず選んだのが、この小さきテレジアでした。紛らわしいことに、大きなテレジアもいます。アビラのテレサ、スペインの方です。実はマザー・テレサは、「大きいほうでしょう」とよく言われるのです。ダイナミックにいろいろなお仕事をなさるからです。彼女のうちではいつも大きいのと小さいのはつながっています。しかし、彼女は「私の霊性、私の生き方は小さきテレジアです」といつもおっしゃっていました。それはどうしてでしょうか。

おそらく「平凡なことを非凡な愛をもって」、これがテレジアの霊性のキーワードになると思います。

私は「サンタ・テレジア」の歌を教会で何度も歌いながら、とてもいい歌詞だなあと思っていました。短い言葉にするのはとても難しいと思いますが、テレジアのメッセージが凝縮されているのです。この意味を理解して深く味わいながら歌い続けていくうちに、テレジアの霊性がだんだんと心に沁みとおってくるのではないかと考えました。

きょうはサンタ・テレジアの歌詞を、順番どおりではありませんが、ここに掲げながら、その生涯をご紹介していきます。

 

♪すばらしきわざ 香りただよう

テレジア語る イエスのみわざ

 

パリJMJロゴ1997年にパリでワールド・ユース・デイ(世界青年大会)がありました。このときに私は若者を連れてキャンプ姿で参加しました。その最後、おそらく70万~80万人の世界中の若者が集まったミサで教皇ヨハネ・パウロ2世が宣言なさいました。

「聖テレジアを教会博士にする」と。

「教会博士」とは、あまり馴染みのない言葉かもしれませんが、カトリック教会の中でたった33人しかいません。有名どころは、アウグスチヌスとか、トマス・アクィナスとか、すごい方たちです。女性は3人だけで、その中の最年少がテレジアです。教会博士というのは神学博士と違って、ハードルが高いものです。最低条件は、聖人であることですが、それも単なる聖人では不十分で、その人の教えが教会全体にとって有益であることが必要です。

教会博士と宣言されるまでハードルが高いというのは、世界中の神学者が集まって、その人の書いたものを調べるからです。テレジアのものも最初から最後まで全部調べられました。そして合格だったのです。したがって、教会博士であるということによって、テレジアの霊性、生き方、教えを私たちが学んでいくのは、関町の守護聖人だからということはもちろんですが、信徒として生きていくうえで、教会のお墨付きの聖人であるからだともいえます。しかも他の教会博士が書いたものはトマス・アクィナスなどとか少し難しいのに対して、テレジアの書いたものは誰でも読めます。誰でもこの人のことが好きになります。不思議なことに。初め嫌いだと思っていた人も大好きになる。世界中でそうです。フランスはもちろんですが、たとえばお隣の韓国、中国でも、教会があったら必ずテレジアの像があります。これらの国の教会の女性に洗礼名を聞いてみると、85%くらいがテレジアなのです。

そのくらい愛されているテレジアですが、「自分がすばらしいのではない。イエスがすばらしいから私はそれを伝える」と語り、この思いで生きていた方です。

 

3.テレジアとヨハネ・パウロ2パリJMJ J.P.II

ヨハネ・パウロ2世は、テレジアを教会博士に宣言なさった方です。ローマで盛大な式がありました。そのときに「現代における信仰生活の偉大な師です」と宣言なさいました。しかもヨハネ・パウロ2世は、テレジアのことを「神の愛についてこの人の右に出る人はいない」、だから、「愛するということを学びたければテレジアに学びなさい」とおっしゃったのです。

テレジアの自叙伝に次のような言葉があります。

 

私は悟ったのです。愛は、あらゆる召命を含み、愛はすべてであり、愛はあらゆる時代、あらゆる場所を包む、愛は永遠である、と。私の使命、それは愛です。母である教会の心臓の中で、私は愛になりましょう。

(自叙伝 288~289頁)

 

これはたぶんもっともよく知られている言葉です。

ここで心臓と言っているのはどういうことかというと、教会はキリストのからだです。テレジアという人はとても欲張りな人で、そのからだの中で全部になりたかった。目にもなりたいし、鼻にもなりたい。手にもなりたい、足にもなりたい、口にもなりたい。どうしよう。自分はカルメル会の小さな禁域の中で生活をしている。そのときに閃いたのです、心臓だと。大胆ですね。私はハートになりたい。ハートは愛そのもの、愛になることによってすべてになれると。

テレジアは、愛するという難題を生きようとしたときにとても参考になることを言っていますし、自分もそれを生きた人です。

 

4.テレジアとベネディクト16B.XI

次に、ヨハネ・パウロ2世の後の教皇、ベネディクト16世です。

実は、テレジアが教会博士になるときに書いたものを検討した神学者たちの筆頭が当時ヨゼフ・ラツィンガーとおっしゃったベネディクト16世なのです。ですから、ベネディクト16世はテレジアの著作を全部読んでいます。そしてお墨付きを出した方です。現存する神学者の中のトップの方です。

その方がテレジアについておっしゃっている言葉を紹介します。

 

聖人こそが、聖書の真の解釈者です。

聖書の文章の意味は、その教えを極みまで生きた人々によってこそ明らかになるからです。聖テレジアがある日、「命の夕べに、私は空の手で主のみ前に立つことでしょう」と言った時、彼女はまさに「神の貧しき者の精神」を描いていたのです。

その貧しい者たちは、空の手で神のみ前に立ちます。その手は、握りしめ、独り占めすることなく、いつも開いていて、与え、与え主である神の愛に、自らを委ねてゆくのです。        (ベネディクト16世『ナザレのイエス』より)

 

皆さんもよくご存じのマタイ福音書の山上の説教の最初の一節を思い起こしてください。マタイでは「心の」とついていますが、「幸いなるかな、貧しき者」。これはルカ福音書の言い方で、私たちがよく知っている言葉です。でも、なぜ貧しい者が幸いなのでしょう。しかもマタイでは「心の」とついている、なぜそれが幸いなのか。

ベネディクト16世は、テレジアの書いたもの、生き方を見ると、それがなぜ幸いなのかがわかるとおっしゃっているのです。聖書を本当に伝えてくれるのは、聖人だと。

 

テレジア2

テレジアの「命の夕べに、私は空の手で主のみ前に立つことでしょう」(自叙伝 390頁)という言葉は、彼女が生きていた19世紀の考え方を根本的にひっくり返したものです。当時は「徳を積みましょう」という考え方が強く、「良いことをしてロザリオを何回やって……これならもう天国だ」というように、少し業績主義の考え方がありました。それに対してテレジアは、「私は空の手で神さまの前に立ちます」と言ったのです。なぜかというと、がっちり自分の富を握っていたとしたら、そこに執着してしまいます。でも空の手で、何ももたない幼子であれば、神さま自身がそこに恵みと愛を注いでくださる。それでもって私は天国に行くのです、という心です。この逆転した考え方については後で詳しくお話しします。

つづく