アヴィラの聖テレサ生誕500年祭(2015年)に向けて、2014年度カルメル誌で 掲載された記事を数回にわけてお届けいたしましたが、
今回が最終回となりました。
教会での公式名は二人ともテレジアですが、誌上ではスペイン語読みでテレサとフランス語読みでテレーズとします。ただしテレサとテレーズを一緒に呼ぶときは「二人のテレジア」とすることを、まずはじめにお断りしておきます。
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二人の聖テレジア ーイエスの聖テレサ と 幼きイエスの聖テレーズ(5)
伊従信子
Ⅰ 神の慈しみとテレサ
1562年マドレ・テレサがすでにキリストとの「霊的婚約」の時期、円熟期に入っていたころ、ドミニコ会士ガルシア・デ・トレド師は、テレサの念祷方法や、主から受けた恵みを自由に書き記すようにと命じました。3年後の一五六五年書き終えたのが、現在わたしたちが手にする『自叙伝』です。日本語訳の巻頭には「神の慈しみの書」と書き記されています。テレサ自身は晩年に「この本のタイトルを『神の慈しみについて』と名付けた」とアビラの参事会員カストロ師に(1581年9月15日付Don Pedro de Castroへの手紙)書き送っています。神の慈しみがテレサの全生涯にわたっていたと回想してのことでしょう。
『自叙伝』のはじめに自分の「罪や悲しむべき生涯に関しては控えめにするように」と命じられたとテレサは記しています。「回心して主に立ち帰った聖人たちは、一度神に召されてからは、もはや神に背くようなことはしなかったのに、自分はそれと反対で、もっと悪くなったばかりか、主がくださる恵みに逆らおうと工夫したようにさえ自分には思われる。それは恵みを受ければ、より多く神に仕えなければならないのが恐ろしく思われたからだった」と明かしています。受けた恵みに対して、わずかでも主に応えられない自分の弱さ、みじめさについて自由に語りたかったとテレサは嘆いていています。
20歳で修道生活に入ってからの「祈りの生活」、神との一致に至る道程をジグザクに歩んできたとの思いをテレサは拭い切れません。テレサの決定的回心の機となる1554年、テレサは「傷で覆われたキリスト像」と出会いました。「傷にまみれたキリストを現したもので、主がわたしたちをしのんでくださったことを、あまりにもよく思い起こさせてくれたので、これを見て「魂の奥底から揺り動かされるほどの強い敬虔の熱情を感じた」と言っています。これほどの傷が物語る計りがたい愛に、自分がどんなに悪い答え方をしたかを考えて、激しい悲痛にとらわれ,心は砕けてしまうかのように感じたというテレサの決定的回心の「時」でした。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために贖いの供え物として、おん子を遣わされました。ここに神の愛があるのです。」Ⅰヨハネ4・10。テレサはこの神の無償の愛と出会い、徹底的にその愛に応えようとします。テレサにとって祈りは「自分が愛されていると知っているその方との愛の語らい」です。テレサにとっての謙遜とは愛である神に向き合った人間の無であり、神の慈しみの愛と人間の罪・無の二つの深淵はともに深まっていく淵なのです。ですから神との一致に至る道を行けば行くほど、中央の住居に近づけば近づくほどに自分の罪・無でしかない存在はあらわになり、その存在を慈しんでくださる神の愛の深さを見出すことになります。ここに人間の真の姿、人間を慈しんでくださる神の愛を称える神の子の真の姿があります。
Ⅱ 神の慈しみとテレーズ
1 神の慈しみを歌いはじめる
他方、テレーズは1894年12月末当時のリジュー・カルメル会修道院院長であった姉のポリーヌ、イエスのアニェス院長から幼い頃の思い出を書くように依頼されました。従順のもとに「思い出」を書きはじめるにあたってテレーズは、自分自身にこだわって祈りの生活のなかで気が散りはしないかと躊躇しました。でも、単純に従う方が、イエスさまのみ心にかなうことだとテレーズはさとったのです。「いずれにしても、わたしは、ただ一つのことしかできません。つまり、わたしが永遠に歌い続ける歌――神の慈しみ――を歌いはじめることです!!!」と。こうしてこの「思い出」は「テレーズ自身によって記され、イエスのアニェス院長にささげられた『小さな白い花の春の物語』と題され、テレーズの幼年時代の思い出として、わたしたちに伝えられています。
テレーズは依頼された「思い出」を1895年1月に自由時間を利用して書きはじめました。その中でテレーズ自身「回心」と呼ぶ自分の体験について書いています。それはイエスさまがテレーズの善意だけで満足なさり、一瞬のうちにしてくださったことでした。その回心の後テレーズは十字架上のイエスの聖画を眺め、その尊いみ手からおん血がしたたり落ちているのを見てとても心を打たれます。イエスのお血が地にしたたっても、誰一人それを受けようとしない、それで十字架から流れ落ちる尊いおん血を受けるために、精神的に十字架の下に立ち留まろうとテレーズは決心しました。そして自分が受けるものを人々の上に注がなければならないと思います。この時以来テレーズは十字架上のイエスの叫び「わたしは渇く」が絶え間なく心に響くようになり、イエスの渇きはテレーズの渇きともなりました。罪人の回心のために働きたい、人をよろこばせるために自分を忘れたいと望むテレーズは、この時以来、愛そのものである神との一致、愛の山頂へと「巨人の足どり」で歩きはじめるようになったとテレーズは「思い出」に記しています。
2 慈しみの愛への奉献
-1- 慈しみの愛に自らをささげるテレーズ
テレーズは依頼された「思い出」を1895年1月に厳しい修道生活の中での細切れのような自由時間を利用して書きはじめました。(1896年1月20日イエスのアニェス院長に渡しました。)それから数か月が経った6月9日、その年は三位一体の祝日でした。テレーズ22歳、カルメル会修道院に入って7年が経っていました。その日のミサ中にテレーズは神の慈しみの愛に自分をささげることを思いつきました。神のうちにせき止められた愛、神が与えたいと望みながら人々がその愛を受け入れない「神の愛の悩み」を繊細なテレーズはひしひしと感じとりました。「愛そのものである方が愛されていない」。ミサのすぐ後アニェス院長に「神の慈しみの愛に身を捧げる」許可を願いました。何かの用事で急いでいた院長はその重要さに気づくことなくテレーズに許可を与えました。「神さま、あなたの慈しみの愛はいたるところで認められず、見捨てられています。あなたはこの愛をあふれるばかり豊かに注ぎたいと望んでおられるのに。人の心はあなたの腕の中に飛びこんで無限の愛を受ける代わりに、造られたものの方に向いて、そこに幸福とみじめな愛情とを乞い求めます。」神の愛の大きな望みを悟ったテレーズは「それ以上神が無限のやさしさの潮を抑えないですむように」果てしない神の慈しみの愛に自らを捧げたのです。
主よ、あなたの愛に生かされるために、あなたの慈しみ深い愛に、わたしをいけにえとしておささげします。どうかわたしを絶え間なく焼き尽くしてください。あなたの中にせき止められた無限の慈しみの波を、わたしのうちに満ちあふれさせ、主の愛の殉教者にしてください。殉教によって主の前に立つにふさわしいものとされてから、ついに死を与えてください!主に向かってすみやかに飛んでいき、主の慈しみ深い愛に永遠に抱かれますように!(テレーズによる強調)
~神の慈しみ深い愛にいけにえとしてわが身を捧げる祈りより~
-2- 慈しみの愛への奉献、テレーズの説明
テレーズ自身はこの奉献の重要性を熟知していました。それで妹のセリーヌ、堅信の代母でもある長姉マリ(み心のマリー)そして修練期中の三位一体のマリーにも奉献を勧めました。この奉献へのそれぞれの反応、抵抗は「慈しみの愛」についてのテレーズの深い洞察をわたしたちに伝えてくれる機会となりなりました。
① 神を愛そうとしない人びとに変わって神をよりよく愛する
み心のマリーは、テレーズの「慈しみの愛への奉献」の勧めに対して「神の正義に身をささげるということは聞いたことはあっても、慈しみの愛にささげるということは聞いたこともない」と反論します。「いけにえとしてわたし自身を捧げる? わたしはいやですね」と答えるのでした。神さまが言葉どおりに受け取られたらどうしましょう!マリーは苦しみが怖いのです。確かに「正義の神」概念が色濃かったころ、罪人たちの受けるべき罰を自分が引き受けようと神の正義にいけにえとして身を捧げる人々がいました。実際にリジューのカルメル会にも神の正義にいけにえとして身を捧げ、33年間苦しんで亡くなった修道女をマリーは知っていました。でも、神の正義に身をささげるのと慈しみの愛にささげるのとでは全く違うことをテレーズは理解していて、マリーに説明します。神を愛そうとしない人びとに変わって神をよりよく愛するように努めることなのだと。
② 慈しみの愛への奉献に恐れはありません、信頼と委託だけです
テレーズが慈しみの愛に奉献してから5か月ほど経ったころ、テレーズのもとで修練を受けていた三位一体のマリーにもテレーズはこの奉献を勧めました。三位一体のマリーは修練長にならい、ただちに奉献することに決めました。ところが、翌日になって自分自身を神にささげるなどという重要な行為にふさわしいものではないと反省し、長い準備が必要だから奉献を延ばしたいと言い出しました。その反応に喜んだのはテレーズです。「そうです、この奉献はとても大切です、わたしたちが想像する以上に重要なのです」と。神さまが準備としてわたしたちに要求されるただ一つのことは、わたしたちがそれにふさわしいものではないことを認める謙虚さなのだと説明し「恐れないで神さまに自分をお任せしなさい。」とテレーズは慈しみの愛への信頼と委託の道を教えます。「慈しみ深い愛への奉献には、恐れというものはありません、この愛からは慈しみだけが出てくるからです。」
テレーズが直感的にとらえた神は、愛の神でした。神の徳性の一つ一つを特に崇めるために、いろいろな生き方をしている人々がいますが、自分のためには神さまは無限の慈しみをくださったとテレーズは思います。それで、「わたしはこの慈しみを通して、神さまのほかのすべての完全さを眺め、礼拝します。するとすべては愛に輝いて見え、正義さえも(『自』237)テレーズにとって正義も慈しみなのです。「神さまはわたしたちの弱さを知っているので寛大なのです。」
Ⅲ 慈しみの愛への「まっすぐな近い道」、「小さい道」
1 テレーズの「小さい道」
「わたしが愛したように人々に神さまを愛してもらい、わたしの小さい道を人々に知らせたい。」「わたしは世の終わりまで、遠い島々の果てまで神の愛を伝えたい。」など生前たびたび自分の使命に関して確信のある言葉をテレーズは残しました。そして慈しみ深い神、父である神への「まっすぐな近道」を「小さい道」としてわたしたちに示してくれます。それはどんな道なのでしょう。その道を歩むには二つの姿勢が要求されます。まず、第一に「自分の無を認めること」。テレーズは「神がわたしのうちに喜ばれるのは自分の無を認めていること」だと言っています。第2は「慈しみの愛である神への信頼と委託の姿勢」です。
「主のみ心にかなうものは、わたしが自分の小ささ、貧しさを愛し、主の慈しみに盲目的に信頼しきっていることです・・・これがわたしの唯一の宝です。」
テレーズは自分の体験を『自叙伝』で語っています(『小自』311)。
「神さまの助けがなければ、他人を助けて善に進ませることは、真夜中に太陽を輝かせるに等しい不可能なことだと感じます。」
2 「小さい道」と「疲れを知らない使徒」テレサ
テレーズの小さい道と「比類ない神秘家」であり「疲れを知らない使徒」テレサの道とは一見なんとかけ離れた神への道なのかと思ってしまいます…しかしその根底を流れているのは、真水、神の慈しみの愛なのです。
「比類ない神秘家」「疲れを知らない使徒」といわれるテレサの使徒的働きの秘訣とはまさにこの神の慈しみの愛にあります。マドレ・テレサのこの基本的な姿勢を聖女自身のことばで限られた紙面で、少しだけ追ってみましょう。
『霊魂の城』の第7の住居でテレサは書いています。
「わたしの唯一の望みは神のみ名がたたえられ、さらなる光栄がきせられるために神の慈しみを告げ知らせることです。」長上から念祷について書くように言われたテレサは、
「何も言うべきことが見つからず、また従順によるこの仕事をどこからはじめてよいかわからないままに、主にわたしを通してご自分で語ってくださるよう願いました。」霊魂を、ただ一つのダイヤモンド、あるいはたいへん透明な水晶でできているお城と考えて書きはじめたのが『霊魂の城』でした。このように神からの光を受けて書きだす前に、テレサはまず自分の貧しさを体験していたのです。「内的なことはとても分かりにくくて、わたしのように無学なものは、適切なただ一つのことを言うためには、やむを得ず長々と余計なことや、見当はずれのことさえ言ってしまうことでしょう。それで、読む方には、忍耐がいりますが、わたくしにとっても、自分が知りもしないことを書くのはしんぼうがいることです。本当に、ときどきわたしは、何を言うのか、何処からはじめるのか全然分からずに、まるで「白痴」のように紙を広げることがあります。」『城』2・7
マドレ・テレサは繰り返し言っています、自分は「世界中で最も役に立たないもの」R3、「わたしは何もしませんでした」、「主がすべてをされたのです。」、「自分が無であること、必要に応じて手に宝を入れてくださるのは神さまです」、しかし「主は寛大な霊魂を探す神、自分に信頼しない謙虚なものを愛する神」だと強調します。
ここに、自分が貧しいと自覚するとき使徒職へとさらに開かれていくマドレ、「疲れを知らない使徒」と出会います。神がすべてをなし、自分は全く何もしていないと確信しているとき、主に託された人々のためにマドレ・テレサは働くことができ、使徒的働きができたのです。そのような力は自分から出てくるのではないと確信します。神のみ前のテレサの謙虚さです。実は、これこそがマドレ・テレサの使徒的働きのコツでした。15年間すべての改革修道院創立のために使っていたのです。「わたしたちの創立のほとんどすべての修道院は人間の手によるのではなく全能の神のみ手によってなされました。このような偉大な御業を完成する力をわたしのような哀れな小さな女に果たせたなどと思い得るのですか。」、「改革のどこを見ても神の業であることがお分かりになるでしょう。」、「主は、これらの創立はすべてご自分が手掛けたのだとわたしと同様すべての人にお示しになりたいのだと思います。主のみが創立者であって、ちょうどほんの少しの泥で目の見えない人に視力を与えられたように、わたしのような盲目のものに闇でない業をやりとげさせられたのです。」「創立に関しては、わたしのような哀れな道具をもって主がすべてなされた主の業なのです。」など『創立史』の随所に見受けられます。
「愛は実行で証明されなければならないのです。・・・娘たちよ、この愛は空想の産物であってはなりません。実行で証明されなければならないのです。とはいえ、主がわたしたちの業を必要となさると考えてはいけません。ただ、わたしたちのしっかりさだまった意志が必要なのです。」『城』3―1・7
すでに霊魂の城第七の住居に達していたテレサは、その第七の住居での使徒的働きについて、「これこそ念祷の目的です。このためにこそ霊的婚姻が役に立つのです。霊的婚姻からはいつも実行が生じます、実行が…。」と言っています。このように、すでに霊的婚姻にあげられた高い段階においても、愛の業、実行が必要であるとテレサは述べています。でもその業を行いながらも「それは自分では何もしていない」という貧しさをテレサは生きていました。「主がすべてをなさったのだ」という確信のみを残して。
おわりに
21世紀に入りわたしたちは様々な分野で人間が果たしていく素晴らしい発明、発見、開発に目を見張ります。確かに人間は無限・永遠である神を自分の手中に握りしめてしまったかのような錯覚に生きてしまうこともできます。造られたものの謙虚さをわすれて。
4世紀を隔て、二人のテレジアは心を一つにして歌っていました、「神の慈しみをとこしえにうたい、主の真を世々に告げよう」と。アビラの聖テレサ生誕500年を機に、21世紀を生きるわたしたちも二人のテレジアの後を慕って「神の慈しみはとこしえに!」と平凡な日常生活ですでに歌いはじめることができますように。わたしたち自身がどんなに小さな存在であっても神の慈しみは輝き出るでしょう…ちょうど陽が昇るともに一滴の水滴の中にも太陽の光が輝きはじめるように。ちょうど神の慈しみの愛の輝きをはかない命が輝き出すように、わたしたちも小さな存在でありながら神の慈しみの愛を存分に吸い込んでその輝きで神不在の闇を照らしたいものです。
おわり