二人の聖テレジア ーイエスの聖テレサ と 幼きイエスの聖テレーズ(2)
伊従信子
アヴィラの聖テレサ生誕500年祭(2015年)に向けて、2014年度カルメル誌で 掲載された記事を数回にわけてお届けいたします。
教会での公式名は二人ともテレジアですが、誌上ではスペイン語読みでテレサとフランス語読みでテレーズとします。ただしテレサとテレーズを一緒に呼ぶときは「二人のテレジア」とすることを、まずはじめにお断りしておきます。
2 アビラからリジューヘ
1562年10月15日スペインのアヴィラにイエスのテレサは原始カルメル会の精神に戻る新しい改革カルメル会聖ヨゼフ修道院を創立しました。その目的は修道女たちがキリストとの一致を目指し愛の完成と人々への奉仕に向かうためでした。
改革者テレサの死から22年後1604年10月15日6人のカルメリットはスペインからフランスに到着しました。フランスでの最初の聖テレサの改革カルメル会修道院はパリのフォブルール・サン・ジャック通りに創立されました。(今年2014年10月15日は改革カルメル会修道院のフランス創立410周年にあたることになります。)この修道院の院長はイエスのアンナでした。(彼女の求めに応じて、十字架の聖ヨハネは霊魂と花婿キリストとの愛のいとなみが語られる歌の注解を書いたのが『霊の賛歌』)。
パリのサン・ジャック通りの新しいカルメル会修道院には多数の女性たちが志願してきました。翌年1605年1月には、ポントワーズに第二の修道院が創立されました。その初代院長に任命されたのはバルトロマイのアンナ(1549~1626)でした。福者バルトロマイのアンナはテレサの最後の四つの創立において改革者テレサから切り離すことのできないもっとも信頼された同伴者でした。
同じ年1605年の9月にはディジョン(のちに福者三位一体のエリザベトが入会することになる)にもイエスのアンナによって新たな修道院が創立されました。こうして修道女たちがフランスに到着してから1年内に3つの修道院が創立され、またたく間に増加の一途をたどっていきました。そして十九世紀初頭には、ノルマンディー地方リジューにも聖テレサの改革修道院は創立されました。この修道院こそ、「リジューの聖テレーズ」と呼ばれることになるテレーズ・マルタンが1888年4月9日に入会した修道院で、後日テレーズによって全世界から多くの巡礼者を集めることになります。リジュー市リバロ通りのこのカルメル会修道院は一八三八年に創立され、修道院の建物が完成したのは、1877年でした。テレーズが入会するのは1888年4月9日でしたから、入会時にはまだ築十年のどちらかと言えば新しい修道院でした。
テレーズと聖テレサ。テレーズはどのようにしてカルメル会改革者テレサ、「霊的な人々の母」テレサの優れた娘となっていくのでしょうか。母と子の絆はさまざまな出来事、また目にするあれやこれや、「そのとき」はそれほど重要とも思えないものなどをも通して紡がれていくものです。テレーズと聖テレサの場合はどうだったのでしょうか。
3 テレーズの聖テレサとの関わり
まずテレーズの『自叙伝』でのいくつかの思い出と列福、列聖調査などでの証言を通して、テレーズの幼児期からカルメル修道会入会前と入会後にわけてテレ-ズの聖テレサとの関わりを、一見たわいない事柄をもみのがさないように探ってみることにします。
―幼児期よりカルメル会入会までの時期-
* 「テレーズ」の名にこだわる母マルタン夫人
テレーズは誕生2日後、アランソンの聖母教会で洗礼を受けました。腸の調子を悪くしたテレーズを生後2ヶ月でマルタン夫人はやむなく乳母に託さなければなりませんでした。テレーズの命が危ぶまれたときマルタン夫人の姉で聖母訪問会修道女シスター・ドジテは、創立者サレジオの聖フランシスコに執り成しを願い、癒されたらこの子をフランソワーズと呼ぶようにと妹に迫りました。マルタン夫人にとって、聖母訪問会修道院は姉の修道院でもあり、また長女と次女を修道院経営の寄宿学校に行かせていましたし、聖母訪問会とは懇意でした。しかし「テレーズ以外の名をこの子のために考えていない」、と姉のこの申し出には耳を貸すことなくテレーズの名を確保するにいたったのです(1873、3・1弟への手紙)。こうして「小さいテレーズ」は毎年聖テレサの祝日には自分の保護の聖人を祝うことになり、子供心に印象に残る日となっていきました。
* カルメル会修道院での聖体訪問
テレーズは4歳半のとき母をがんで亡くしました。父マルタン氏は5人の娘を連れて、妻との思い出の残る住み慣れたアランソン市を離れて、弟家族の住むリジュー市に引っ越すことにしました。それは母亡き後、娘たちがゲラン家と家庭的雰囲気の中で過ごすことができるようにとのマルタン氏のはからいでした。その頃の思い出にテレーズの楽しいひととき、パパとの毎日の散歩があります。(『自』48。)尊敬と親しみをこめて「わたしの王様」とテレーズが呼ぶパパとの散歩です。『自叙伝』の中のこの思い出はわたしたちに母亡き後のテレーズの幸せなひと時をほうふつとさせてくれます。
こうして少女テレーズは「午後はいつもパパと一緒に散歩に出かけ、毎日違った教会を巡っては、聖体訪問をしました。」カルメル会の聖堂にはじめて入ったのも、このような時でした。静けさがしみこんだ修道院の聖堂に入ると、パパマルタン氏は、歌隊所(世間の人々と会うことのない修道女たちの聖堂)の大きな格子を指して、「あのうしろに修道女たちがいらっしゃるのだ」とテレーズに耳打ちします。まだいろいろなことはわかりませんが「あのうしろで祈る修道女たち」のことをテレーズはときおり思い巡らします。9年後に自分がそのお仲間入りをしようとは、まだ6歳のテレーズは夢にも思いませんが。
テレーズの入会は9九年後」ということですから、1879年のことになります。ということは散歩の途中のテレーズとパパの聖体訪問は、カルメル会修道院の建物が完成してやっと2年経ったころだったのです。このようにして6歳のテレーズには、パパとの楽しい散歩の思い出の中に「人々のために祈る修道女」たちの静かな祈りの生活の雰囲気がしみ込んでいきました。
1882年10月2日ママ亡き後第二のママと慕っていたポリーヌがカルメル会に入りました。そしてその四年後には一番上の姉、テレーズの代母マリーも同じ修道院に入会することになります。散歩の途中のカルメル会修道院での聖体訪問は、修道院の中の生活に思いをはせ、テレーズにとってさらに身近なところとなっていきました。
* 「保護の聖人」のお話し
日曜日のミサ中「神父様が説教で聖テレサのことをお話になりますと、パパはわたしの方に身をかがめて小声で、『わたしの小さい女王さん、よくお聞き、お前の保護の聖人のお話ですよ』と言われるのでした。」でもその頃のテレーズは司祭の話、それが自分の保護聖人についてでも、それよりパパだったのです。「わたしは神父様のお話をよく聞いてはいましたが、説教しておられる神父様よりも、パパのほうを眺めていることがたびたびでした。」(『自』60) テレーズにとっては司祭の説教より、自分の保護聖人の話より、信仰の厚い身近なパパの存在の方が圧倒的に強い印象を与えていました。
* マルタン家とカルメル会修道院
1882年10月2日にポリーヌはカルメル会に入会し、イエスのアニェス修女となりました。
聖母訪問会の寄宿生であったポリーヌは、母の姉、シスター・ドジテもいる聖母訪問会修道院でなくどうしてカルメル会修道院に入会したのでしょうか。ある日、聖ペトロ・カテドラル教会のカルメル山の聖母の聖堂で、父とマリーといっしょにミサに与っていたとき、ポリーヌは今まで考えてもみなかったカルメル会への屈しがたい招きを心のうちに感じたということです。この出来事はその後マリーのカルメル会入会とテレーズの入会へとつながっていくことになります。
10月以来、テレーズはリジューのカルメル会修道院長、ゴンザガのマリー修院長にカルメル会入会の希望を打ち明けていました。その年の暮れにテレーズは手紙を院長宛に書いています、「母さまの小さい娘(こども)テレジッタ」とサインして。
* 「幼きイエスのテレーズ」
それはテレーズの姉ポリーヌのカルメル会入会後間もなくテレーズが修道院を訪問したときのことでした。ゴンザガのマリー修道院長はテレーズにどのような名前を付けたらよいだろうかと思案したあげく、「幼きイエスのテレーズ」と命名しました。そのときゴンザガのマリー院長にはアヴィラのテレサが幼い姪のテレジッタをカルメル会に迎え入れた思い出が重なっていました。テレーズにとっては、それはちょうど自分自身心の内でそっとほしいと思っていた名前であったと言っています。「テレーズというわたしの美しい名前は変えられたくありませんでした。」(『自』96)。
* 聖テレサ帰天300周年
聖テレサ帰天300周年を祝う一八八二年、教皇レオ13世が奨励される九日間の祈り(ノベンナ)をリジューのカルメル会修道院でも行いました。それに続いて毎日午後4時から一般の人たちを対象に聖テレサの生涯を紹介する黙想がありました。その年の10月2日にはテレーズはベネディクト会の学校に入学しているので、おそらくテレーズはこの黙想会には参加しなかったと思われます。しかし、聖テレサ帰天300周年を機会に採りつけたカルメル会修道院の聖堂の飾りと聖堂内に置かれた新しい大きなアヴィラのテレサの像をテレーズはたしかに見たはずです。10月17日には1人の修練者の誓願式、「祝日より3日間」の説教もありました。その最後はアヴィラのテレサについてでした。これら聖テレサ帰天300年の記念行事に、通学中のテレーズが参列することができなくてもすでにポリーヌの入会と自分自身の入会希望は改革者テレサとの関係を深めないはずはなかったでしょう。テレーズにとって記憶すべき年となりました。
* テレーズの読書
その頃のテレーズの主だった読書は、『イエス・キリストにならう』とアルマンジョン神父の『この世の終わりと後の世の生命の奥義』(註、シャンベリの司教座聖堂でなされた説教集)でした。(『自叙伝』138)。
ここではただ、主がとても豊かに与えてくださった糧についてだけ話しましょう。ずっと前から、わたしは『キリストにならう』に含まれている”純粋な小麦粉”で養われていました。あのころには、まだ福音書に隠されている宝を見出していなかったので、この本だけが唯一の本でした。この大好きな『キリストになう』の章はほとんど暗記していたくらいで、この小さい本を決して手放しませんでした。・・・14歳の時、神さまはわたしの知識欲をご覧になって、”純粋な小麦粉”に“蜜と油とを豊かに”添えることが必要であると思いになりました。そしてこの蜜と油とをアルマンジョン神父さまの説教集に見出させてくださいました。(『自』138)
テレーズは自叙伝で「この読書は、わたしの生涯で一番大きな恵みの一つとなりました」と書いています。「自分の勉強部屋の窓際で読んだのですが、そのときに受けた印象はあまりにも心の奥深いところのものであり、またあまりにも甘美なので、とても言葉に表すことはできません。」
ここでテレーズはカンのカルメル会で出版した聖テレサの伝記二巻Histoire de Sainte Thereseを挙げていません。1882年の記念の年にあたってテレーズに贈られたものです。この本はマルタン家でとても好評でした。イエスのアニェス(ポリーヌ)はほとんど全部暗記しているとセリーヌに書いています。1882年にピッション神父はマリーにこの本を推薦しています。テレーズが果してこの本を読んだかどうかはわかりませんが、1888年の一学期の学校のノートに「聖テレサとサレジオの聖フランシスコはわたしの好きな著者です」とは記しています。しかし、その後1895年テレーズは自分の人生の大きな恵みについて話すとき、このことに関して何も触れていません。
* 「聖テレサのように愛に死ぬ」
1881年10月3日、テレーズは半寄宿生としてリジューのベネディクト会の学院に入学し、1884年五月8日3日間の初聖体準備黙想会後ベネディクト会修道院で初聖体を受けました。それはその日の午後のおやつの時のことでした。一人の女の子が、「テレーズが神さまにお願いしたことは、死ぬことですって。怖いわね!」と言いました。信仰深いが繊細で、傷つきやすい子テレーズの気持ちを察した修道女は介入して説明します、「勘違いしてはいけませんよ、テレーズがお願いしたのは、実に聖テレサのように愛に死ぬことですよ」と。この助け船に「シスターありがとう、わたしの心をよくわかってくださって・・・」、テレーズはシスターに礼を言います。(『ある人生の物語』ギ・ゴッシェ著、88p、聖母の騎士社)
*「神について、永遠について考える」テレーズ
あるとき学校で一人のシスターから「おやすみの日、一人きりの時には何をしますか」と聞かれたテレーズは「ベッドの後ろのあいている場所に行って、カーテンを引けば簡単に隠れることができますから、そこで考えます」と応えました。「そこで何を考えるの」と聞かれ「神について、人生について、永遠について考える」(『自』102)と答えるテレーズは、すでに深い祈りにそれと意識することなく身を委ねていたことを証しているのではないでしょうか。すでにテレサの祈りの定義はテレーズの心のうちに刻まれていたといえるでしょう、「自分が愛されていると知っているその方との愛の語らい」である祈りが。
テレーズはカルメル会入会前の時期に周りの人たちから、それとなく勧められていた聖なる保護者テレサをモデルとして見倣うということはなかったようです。『自叙伝原稿A』において自分の保護聖人を聖性のモデル、難しい内的歩みにおいての光の源をとして参照はしていません。保護聖人として慕ってはいても自分の深みから愛である神ご自身を探し求め、そのお方と親しく生きはじめていたのだといえるでしょう。
~つづく~