『現代人のための祈りの道 – アビラの聖テレサとともに』(7) 

2014年5月14日

例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』 

昨年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行わました。

 そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介しています。

現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に

片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)

 

知性の役割

イエス・キリストと共に祈るためには、イエス・キリストを知ることも必要です。そのためには、読書によって知性に糧を与えることが、雑念を避けるための大きな方法となります。テレサ自身、当時一流の学者たちに教えを乞い、自分の体験を照らし、神についての知識を深めることを大切にしていました。

わたしたちが祈れないと嘆く時に、この点での「栄養不足」がないかどうか反省してみる必要は大いにあると思います。社会人として、さまざまなメディアを駆使して多くの情報をえたいるにもかかわらず、神についての知識は幼稚園でならったことにとどまっているとしたら、大人の祈りにはならないからです。小さきテレーズは、いつも福音書を文字通り肌身離さず持って、その中に「神様」の性格を探し求めていました。

ただ知性の発達した人にとって、もう一方の誘惑は、祈りの中で頭を使うことに終始し、本質であるイエス・キリストへの愛を忘れることです。テレサは端的に「祈りとは多くを考えることではなく、多く愛することです」と教えてくれます。確かに祈りの初めにはいつも黙想の形で知性を動員し、イエスについておもいめぐらすことが必要です。ただ、イエスとのかかわり、対話がはじまったなら、知性は静かにさせて、愛による語りあいへと入ってゆかなくてはなりません。祈りの間中、考えることに終始し、それを良い祈りを誤解するなら、その祈りは一見充実しているように見えて、実をむすばない不毛なものとなってしまいます。

こうして、祈りの道を歩いてゆくうちに、最初は苦労して水をひきあげなければならなかったのが、しだいに時々は神のイニシアチブで水を汲む苦労が少なくなり、そして最後は、神が天から水をふらせてくださるのだと、テレサは励ましてくれます。

それゆえに、大いなる望みを持ち、勇気と謙遜と忍耐をもって、一歩を踏み出すこと。これがテレサの教えてくれる祈りの道なのです。

 (つづく)