『現代人のための祈りの道 – アビラの聖テレサとともに』(1) 

2013年11月14日

例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』 

今年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行わました。

そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介いたします。

現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に

片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)

1.現代人のための母、テレサ

「この世はまるで火事のようではありませんか」(完徳の道1章−5)

五〇〇年前にスペインで生きた、このテレサの叫びは、大震災、原発事故を経て、今日本で生きる私たちの心の叫びでもあります。明日三月十一日は、あの大震災から二年目の記念日です。私たちはこの日をさまざまな思いと祈りのうちに迎えます。

大震災、津波、未だ収束に遠い福島の原発事故は、生とは、死とは、生きる意味とはという根本的な人生の問題を一人一人に投げかけました。そして、このような悲惨と苦しみを越えていきるための希望はどこにあるのかという問いが、切実なものとなりました。

 

・「大いなる希望」

今、私たちが欲しいのは、中途半端な慰めや励ましではなく、この「山火事」のような世界の中で生き抜くための、本当の希望、救いであると思います。そして多くの人々が、おそらく自分でも無意識のうちにそれを探しているのではないでしょうか。

ベネディクト16世は、その最後の回勅『希望による救い』の中で、人間にとって必要な「小さな希望」と「大いなる希望」について語りかけました。人間は、毎日小さな希望:明日いいことあるかな?、天気だといいな?、から始まり、いい人と出会えるといいな、結婚できるといいな、などなどという無数の希望に励まされて生きています。希望がなくなった人はもう、前に進むことができなくなります。毎日を生きるためには、少なくともスプーン一杯の希望が必要なのです。

 

ただ、そういうたくさんの小さな希望が少しずつ満たされていても、それでは十分ではありません。なぜなら人間の望み、特に幸福への願いは無限であるのに、わたしたちの人生は、苦しみそして死という限界に必ずぶつかるからです。人間の無限の願いを満たしてくれるものは無限なるものだけです。それで教皇は、人間は「偉大な希望」を必要としており、その「偉大な希望は神以外にはありえません」と語ります。なぜなら、「神は希望の基盤です。この神は、神々の一人ではありません。それは人間の顔をもった神です。わたしたちを、わたしたち一人一人を、そして人類をこの上なく愛してくださった神です。」(『希望による救い』31)

私にとって、テレサとは、今から500年前に生きた、遠いところにいる神秘家ではなく、今毎日の生活を生きるために不可欠な希望、「大いなる希望」について教え導いてくれた母のような存在です。ただ、残念なことに、カトリック教会の中でさえ、彼女の本当の姿は良く知られているとは言えないように思います。

 

・アビラにて

ちょうど3・11の時に、私は若者たちのためにスペインで開かれるワールドユースデイの巡礼旅行を企画していました。その最中に大震災が起こり、わたしは一度はこの計画を断念しようと思いました。高いお金を払ってヨーロッパへ彼らを連れてゆくよりも、被災地に行ってボランティアをするべき時ではないかという当然の思いからです。ただ、その時の若者達の声に心動かされました。彼らもすぐに被災地に入りボランティアをしたり、募金をしたりと精一杯の活動をしていました。そんな彼らが、どうしてもワールドユースデイに行きたい、行って世界中の人達にその援助を感謝したい、そして日本の若者の声を直接届けたい、僕たちが元気であることを伝え、世界中の若者達と交流し、共に祈りたいと言ってきたのです。その時、これは彼らにとっての切実な希望であることに気づき、ついに巡礼旅行を決行することにしました。

 

そして、熱気溢れる実り豊かなマドリッドの大会を終え、若者達と共にアビラを訪れました。アビラはご存じのように、テレサの思い出で満ち満ちている美しい城壁都市です。アビラでラ・サンタ(聖女)と言えば、イエスの聖テレサのことです。そこで、彼女の生家、エンカルナシオン修道院、聖ヨゼフ修道院など回っている内にたくさんの彼女の像や絵を見ることができました。バロック風の絢爛豪華な装飾で飾られた絵の数々は特に彼女のうけた神秘的恵みを描いたものが多く、アビラの城壁の外には、脱魂の状態のテレサの有名な像もありました。テレサの生涯を身近に感じる恵みの一時でしたが、同時に私の中で、なんとも言えない違和感のようなものがふくらんでいったのです。

それは、このようなテレサのイメージがはたして今の若者達にぴんとくる存在なのか、あまりにも現実離れした姿から、本当のテレサの姿が伝わってくるのかという疑問でした。

そんな中で、私にとって最もぴったりときたのは、エンカルナシオン修道院の前にある等身大より少し大きなテレサの像でした。それは、杖をもって旅するテレサの像です。天使に囲まれ、目がうつろに宙をさまよっているようなロマンチックな像ではなく、しっかりと前を見据え、足を地に着けて一歩を踏み出している旅人の姿です。テレサの著作の中には、「歩く」という動詞がたくさん出てきます。それは、彼女の霊性の特徴を示しているかのようです。なぜなら彼女は、決して立ち止まらず、先へ先へと、つまり唯一の希望である神に向かって歩き続けた人だからです。

(つづく)