『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』より抜粋 :第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) 第10回 (最終回)

2013年10月14日

ノートルダム・ド・ヴィの創立者 幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の著書『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』 の中から、第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) の日本語訳を2013年1月より10回に渡って連載しています。

 

『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』

p.116-126 第8章 テレサ的精神 (Espirt thérèsien )

  

主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。

私は情熱の全てをかけて、主に仕える。

  

(第9回からの続き)
  テレサの著作全体には、教会のために働く使徒としての使命を受けた人々への忠告が散見することをまず指摘しておこう。『自叙伝』と『完徳の道』の執筆は、カルメル会士の改革の前であったため、そこでは主に念祷についての教えが展開されている。一方『霊魂の城』においては、キリストに結ばれ、使徒となったテレサが、霊的生活について、崇高で幅の広い最も完全な教えを述べているのである。

 

  事実、テレサの教えにおいて、使徒職についての霊的教えと祈りについての教えを区別し、切り離すことはできない。この霊性において、観想と使徒職は、ともに結ばれ、一緒になって見事に補足しあっている。なぜなら、それは、調和ある深い霊的生活の二つの側面、その二つの現れにほかならないからである。

 

  また、この二つの側面は、一見、霊的生活の二つの段階に一致しているように見える。第一の段階において、初心者は、まず神のことを第一に生活するようにと招かれる。神に一致して生きることがまず重要だからである。そして、第二の段階においてのみ、人々のために、生きることが許され、それは義務ともなるのである。観想的段階と活動的段階の区別とも呼べそうである。だが、このような単純な区別は、正確さを欠くことがすぐに明らかとなる。なぜなら、第一の段階の潜心の念祷は、使徒職のための力を蓄えるためのものである。そして第二の段階の活動は、すべてのエゴイズムから観想を浄め、変容的一致へと導く糧となるからである。

 

  聖テレサの霊性は、その魂と人生のほとばしりであり、崇高に観想的であると同事に驚くほど活動的であるという二重の性格を持っている。この霊性は、真に霊的な人々を育てることができる。生ける神の御前にとどまることを学んだ時、人は、熱意に燃える使徒となることができるからである。それゆえ、エリアの叫びが、テレサの改革カルメルの標語となったのであった。

 

 「主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。

私は全ての情熱をかけて、主に仕える。」

終わり
日本語訳:片山はるひ
(ノートルダム・ド・ヴィ)

来月からは、『現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に』を連載致します。