『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』より抜粋 :第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) 第5回

2013年5月14日

ノートルダム・ド・ヴィの創立者 幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の著書『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』 の中から、第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) の日本語訳を2013年1月より10回に渡って連載しています。

 

『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』

p.116-126 第8章 テレサ的精神 (Espirt thérèsien )

  

主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。

私は情熱の全てをかけて、主に仕える。

  

(第4回からの続き)

「神の僕である方々を、祈りでお助けできるものとなるよう、努力しましょう。」(道、3章、2、p.39)

 

  カルメルの霊性を生きる者にとって、人々の救いへの熱意は、観想的祈りから気をそらさせるどころか、より神の深みへと入ることを助けてくれる。こうして、自らの努力と神の恵みに助けられ、自然的、超自然的な全ての手段を使って、神に近づき、その全能の神の尽きぬ泉から生ける水を汲むようにとなるのである。

 

 この熱意は、神との親しさに生きることしか考えていなかった時には思いもよらぬ、犠牲への地平を開いてゆく。確かに聖テレサは、「神を見るためには、死ななければなりません」と宣言していた。だが、アビラに聖ヨゼフ修道院を創立したときには、まだ、その修道院において、それほど厳しい生活を送ることは考えていなかった、と後に述懐している。

 

「聖ヨゼフ修道院の創立について、話し始めた当初は、これほどの厳しい生活も、年金を持たないということも、私の意向ではありませんでした。むしろ、私は、何にも事欠かないようにしたいと望んでいたのです。」(道、第一章、1、p.22)

  

  神との親しさにのみ生きたいという願いの底に隠されている密かな自愛心は、人々の救いのために捨てなければならない。 

  そして、究極の犠牲としての受難に入る前に、父への祈りを唱えたイエス・キリストにならって、教会のための祈りは、犠牲においてのみ実りを結ぶことを理解するのである。

 

  こうして、テレサが教会を発見し、人々の救いへの熱意が燃えはじめた時から、カルメル会の生活は、厳しいものとなり、自らを完全に捧げ尽くすことが、必要性とも、掟ともなっていった。

つづく
日本語訳:片山はるひ
(ノートルダム・ド・ヴィ)