ノートルダム・ド・ヴィの創立者 幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の著書『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』 の中から、第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) の日本語訳を2013年1月より10回に渡って連載しています。
『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』
p.116-126 第8章 テレサ的精神 (Espirt thérèsien )
主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。
私は情熱の全てをかけて、主に仕える。
(第3回からの続き)
こうして、大切なのは主との親しさを味わうことではなく、人々の救いとキリストへの愛のために戦うことであることに、テレサは気づいてゆく。
そして、狭い修道院の禁域の中で、どうしたらこのような熱意を見たし、教会に役立つ働きをすることができるのだろうか、と自らに問いかける。
「けれども、女性でありまだ非常に不完全な者として、神の栄光のために、成し遂げたいと思うことを実現するのは、私には不可能のように思えました。」(道 1章、2、p.23)
この愛は、本物であるがゆえに、単なる熱意のみには留まらなかった。テレサは、償いを果たし、教会に使えるために、今まで以上に現実を見据え、まず修道女としてのつとめを完全に果たすことから始める。
「私の願いのすべては、神にこれほど敵が多く、友が少ないのなら、神のそのわずかな友として、全てを捧げたいという思いでした。それで、自分にできるほんの僅かなことをまず行う決意をしました。つまり、福音的勧告をできるだけ完全に果たし、同じ修道院の何名かの修道女を同様の完全な生活をするようにと導くことにしたのです。」(道 1章、2、p.23)
心に燃えたった情熱に動かされ、彼女は修道生活の理想とその義務について再考せざるを得なくなったのである。
祈りは、教会において当時すでにカルメル会の本質的な役割であった。教会のために戦う人々のためには、どれほど祈りが必要なことだろうか。聖テレサは、『完徳の道』の第3章において、「祈りこそが、この戦いのために必要な資質を与え、この世の危険から守ってくれる」と説いている。
修道院から出ることなくとも、聖テレサは教会のための激しい戦いに参加し、キリストの勝利へと貢献することができるようになる。
「教会の守り手、説教者や神学者たちのために祈るならば、私たちの力を尽くして主をお助けすることができるのです」(道 1章、2、p.23)
示された使徒職の目的により、この祈りは、より崇高なものとなる。そして祈りが効果あるものとなるためには、完全でなければならない。
ゆえに、祈りの有効性は、特に祈る人の聖性の程度による。人々への愛が、神との一致へと向かわせるからである。
つづく
日本語訳:片山はるひ
(ノートルダム・ド・ヴィ)