『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』より抜粋 :第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) 第3回

2013年3月14日

ノートルダム・ド・ヴィの創立者 幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の著書『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』 の中から、第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) の日本語訳を2013年1月より10回に渡って連載しています。

 

『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』

p.116-126 第8章 テレサ的精神 (Espirt thérèsien )

  

主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。

私は情熱の全てをかけて、主に仕える。

 

(第2回からの続き)
 この熱意は、テレサにとって大きな光をもたらし、その霊的地平は広がっていった。イエス・キリストとの単なる親しさを超えて、全キリストである「教会」を発見したのである。その教会は、招かれているにもかかわらず、そこから遠ざかっている人々をも含むものだった。彼女は、キリストの心の思いを経験してゆく。あがないの血が無駄とも思えるほどの、拒まれた愛の苦しみ、神の愛を知らぬがゆえに地獄に堕ちる人々への、身を裂かれるような憐憫。ひとことで言うならば彼女は、戦う教会の苦しみと苦悩の神秘のただ中へ、キリストの心の深みへと入ることによって、教会の教義を身を以て体験したのだ。

 

  教会への愛は、これ以降、聖テレサの人生の中心となってゆく。この愛の情熱は、自らの望み、神との親しさへの渇きと望みのすべてを一つにし、テレサの気力と活動は全てそのためとなる。そして、最後の息を引き取る前に、この愛は、テレサの単純かつ崇高な表現、「私は教会の娘です」として結晶するのである。

  教会のために働くこと、これがテレサの召命であり、改革カルメルの目的となる。

 「あなた方の祈り、望み、苦行や断食が、教会のためでなくなるなら、あなた方は、主が呼び集めてくださった目的を果たしておらず、それを成し遂げることもできないことを良く心に刻んでおいてください。」(道、第3章、10、p.47)

  

  『完徳の道』の第3章をしめくくるこれほどはっきりとした聖テレサの言葉は、彼女の精神、その霊性のダイナミズム、行った全ての事の目的を如実に示している。

 

   イエス・キリストご自身も、霊的婚姻の絆をテレサと結ばれることで、テレサの言葉の真正さを証される。そして、決定的な一致の印として、十字架の釘を彼女に与え、次のように語られる。

 

「この釘を見よ、これは今から後あなたがわたしの妻となる印である。(中略)今後、あなたは私の真の妻として私の誉れに心を配らねばならない。」(霊的報告28 p。307)

 

 カルメル山の山頂では、キリストと共に十字架につけられ、その栄光のために全てを捨てて働かねばならない。テレサは、自分の後に従う人々のまなざしを、この頂へといざない、努力や望みをすべてそこへと向けさせる。「私は魂を救うため、そして特に司祭方のために祈るために来ました」と幼きイエスの聖テレーズは、カルメル会入会の時に語っている。小さきテレーズは、自分の召命をよく理解していたのだった。

  

 それゆえ、私たちにとってもテレサの教えの真の広がりと方向性を知ることは重要なのである。

つづく
日本語訳:片山はるひ
(ノートルダム・ド・ヴィ)