≪NDVアーカイブ≫ 2012年5月 -テレーズと神のいつくしみの愛-(前編)奉献への招き

2020年1月18日

今回は2012年5月23日に掲載しました 『テレーズと神のいつくしみの愛 前編』をご紹介します。執筆者:伊従 信子(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

前編の今日は 『奉献への招き』 です。

therese17a

1895年6月9日三位一体の祝日に、テレーズはいつくしみの愛へ自らを捧げました。「神のあわれみ深い愛に身を捧げる祈り」にはテレーズの「小さき道」が要約されています。どのような状況で、どうしてテレーズは自らをいけにえとして捧げ、他の人たちもそうするように勧めたのでしょうか。

1895年という年

1895年といえば、テレーズは22歳、カルメル会に入って七年が経っています。その年の2月26日テレーズは、40時間顕示されているご聖体の前で礼拝の間に、一気に「愛に生きる」を作詩しました。

私は感じています。自分の島流しが終わろうとしていることを!

愛の炎よ、止むことなく私を燃やし尽くしてください

一瞬の命よ、お前の荷は私にはとても重い!  14節

「自分の島流しが終わろうとしている」ことを、まだ元気そうにしているテレーズはどのようにして感知していたのでしょうか。2年後に彼女の命を奪うことになる結核は、この時まだその姿を現わしてはいませんでした。テレーズが「島流しの終わり」の近いことをはじめて確認したのは、翌年の4月、聖木曜日から聖金曜日にかけての夜の最初の喀血でしたから。しかし、テレーズは「自分のうちに起こる事柄」から自分がまもなく死ぬことを直感していたのです。なぜなら、修道生活のはじめから望みと慰めをもって十字架の聖ヨハネの次の言葉を繰り返していたというのです。

霊魂がすみやかに愛に焼き尽くされ、
すみやかに顔と顔をあわせて神を眺めることが出来るよう、
ただひたすら愛を実践することはもっとも重要なことである。

テレーズは「繰り返していた」と言いますが、それは「実践していた」と言うことですーー平凡な日々の修道生活において「ただひたすら」。このように愛に生きていたテレーズは、「自分のうちからの事柄」として「愛に死ぬ」時がそれ程遠くないことを感知していたのです。すなわち一八九五年、テレーズはすでに内からの確証を得る程に霊的生活の成熟期に来ていたと言えるでしょう。事実、アニェス院長の依頼で1895年1月には書き始めていた自叙伝の第一部原稿Aの中で、テレーズは言っています。

私は、生涯において過去を振り返ってみることのできる時期に達しています。内から、そして外からのさまざまな試練のるつぼの中で(父親の病気、それにまつわる苦しみ、修道生活での困難、苦しみ、無味乾燥など)、私は成熟してきました。

アニェス院長が「幼児期の思い出」を書くように命じたのは、確かに時を得ていました。神のあわれみの愛を発見したばかりのテレーズは、その光で今まで生きてきた道程を振り返り、さらに深く理解できるようになっていました。

1895年というと、その1年前マルタン氏が数年の病の後この世を去り、それまで父親の世話をしていたセリーヌは、二ヵ月後すでにリジューのカルメル会に入会しています。この志願者セリーヌの指導にあたるのは、四歳下の妹テレーズです。1893年以降、テレーズは、マリー・ド・ゴンザグ修練長の補佐として修練者の教育にあたっていました。セリーヌは1895年2月着衣をし、聖テレジアのジュヌヴィエーヴー(後に尊い面影のジュヌヴィエーヴ)ーの名を受けました。この一連の出来事は、確かにみ摂理でした。テレーズが孤独と闇のうちにつかみ始めた「新しい道」、「幼子の道」の生き方を、示していくことになるからです。とりわけ幼い頃から霊的分かち合いをしていたセリーヌに、テレーズは他の人によりさらに自由に、「新しい道」を表明することができました。そして1895五年の「あわれみの愛」への奉献において、テレーズは、この「新しい道」、「幼子の道」を要約したと言えるのです。

神のいつくしみの愛に身をささげて

ー奉献への招きー

bouquet 3

1895年6月9日、それは丁度三位一体の祝日の日曜日でした。その日のミサの間に、テレーズは神のあわれみ深い愛に自分を捧げることを思いつきました。感動しきったテレーズは、ミサの後すぐにイエズスのアニェス院長に、聖い面影のジュヌヴィエーヴ(セリーヌ)と一緒にあわれみ深い愛に身を捧げる許しを願いました。急いでいた院長はその重要さに気づくことなく許可を与えたと言うことです。奉献をテレーズはセリーヌのために「神のあわれみの深い愛に身を捧げる祈り」として書きとめました。(この祈りをテレーズは、以降常に身につけていたと尊い面影のジュヌヴィエーヴは列聖調査で証言しています)。それから2日後、二人はテレーズの修室の側の廊下に置かれていた「微笑みの聖母」の前に跪き奉献文を唱えました。(この聖母のご像は、かつてテレーズの家にあったものですがー奇妙な病に倒れた10歳のテレーズにほほえみかけ、癒されたと言われているものーセリーヌがカルメル会に入会した時持って入りました)。ここでも明らかなようにテレーズが、自分が大切と思う「あわれみの愛」への奉献について、まず分かちあったのはセリーヌでした。それからしばらくして、テレーズは自分の代母であり、長姉、み心のマリー、そしてテレーズの下で修練していた三位一体のマリーにも自らを生け贄として捧げるように勧めました。

しかし、み心のマリーは神の正義に身を捧げるということは聞いたことはあるが、「あわれみの愛」に生け贄として捧げること、そんなことは聞いたこともないと答えました。

生け贄として私自身を捧げる? まっぴらです。
神様は、言葉通りにおとりになるでしょう。
私は生け贄という言葉は嫌いです、苦しみが恐いのです。

そこでテレーズは、「あわれみの愛」に生け贄として身を捧げることは、神の正義に身を捧げるのとは全く違うことを説明しました。あわれみの愛に身を捧げたからといってより多く苦しむことはなく、しかし神を愛そうとしない人々に代わって、神をよりよく愛することが出来るためのものであると説明しました。妹のテレーズが「あまりにも雄弁でしたので、私は負けてしまいました。でもそれを悔やんでいません」と後日み心のマリーは打ち明けています。「悔やんでいない」だけでなく、その後マリー自身彼女の友人、知人たちに、この奉献をするように勧めていたと言うことです。1940年1月19日み心のマリーは亡くなる時、小声でしかしはっきりと、この奉献を新たにして息絶えたとセリーヌは証言しています。

三位一体のマリーは、5ヵ月以上経った11月30日になって
やっとテレーズから「あわれみの愛」への奉献をすすめられました。

私は修練長に倣いたいという望みをただちに表明しました。
そして翌日、奉献することに決めました。

ところが、一人きりになって考えてみると、自分を神に捧げるなどと言うこれほど重要な行為のために、自分がふさわしくないことをこの修練者は反省しました。もっと長い準備が必要であると考え、神の愛への奉献を延ばしたいとテレーズに説明したのです。するとスール・テレーズの顔には、大きな喜びの色が現われたと後に三位一体のマリーは打ち明けています。

そうです。この奉献は大切なことです、私たちが想像するより
重要なことなのです。でも神様が、私たちに要求されるただ一つの準備、
それは、私たちがふさわしくないことを謙遜に認めることです。
神様がこの恵みをあなたに下さるのですから、恐れないで
神様に自分をおわたしなさい・・・
あわれみ深い愛への奉献には、恐れることが何もありません。
と言うのは、この愛からは、あわれみしか期待し得ないからです。

み心のマリーと三位一体のマリーの反応は、まさに私たちの誰でもが言いそうなことです。ですから、彼女たちへの説得は、テレーズが理解していた神のいつくしみ深い愛についての私たちへの説明でもあるのです。

(つづく)
文: 伊従信子