アビラのテレサの助けを借りて、「祈り」について少しずつ理解を深めてきましたが、最後に、「神とただふたりだけで」ということを考えてみたいと思います。まず、リジューの聖テレーズの言葉に耳を傾けましょう。
ちょうど太陽の光が杉の大木と同時に、小さな花の一つ一つを、まるでこの地上には その花しかないかのように照らすのと同じように、神さまも一つ一つの霊魂について、 まるでそのほかには霊魂がいないかのように、特別にみ心をおくばりになります。
これはテレーズの『自叙伝』の冒頭部分です。人生の終わりごろ、自分の生涯の物語を書くようにと言われて過ぎ去った日々を振り返ったときに、彼女の心にまず芽生えたのは驚きと感謝の念でした。自分のような「小さな花」にも、神様は「杉の大木」と同じようにそのいつくしみの太陽を惜しみなく注いでくださった、「まるでこの地上にはその花しかないかのように」。
世界にその人しかいないかのようにいつくしむこと、それは愛のひとつの特徴です。そして、わたしたちにとって生きるエネルギーとなるのは、まさにそのことではないでしょうか。どれほど落ち込み、自信を失くし、この世界に居場所がないと感じても、だれかがわたしをたった一人のものとして見つめていてくれるかぎり、わたしたちは生きていくことができます。聖書(イザヤ書)のなかには、神のいつくしみはどれほど一人ひとりに向けられているかが印象的な言葉で表現されています。
主は、わたしが胎にいたときからわたしを呼び、母の腹にいたときからわたしの名を発せられた。
わたしたちは生まれ出る前から主に知られ、呼ばれている者なのです。ですから主の呼びかけに応えるのは常に一人ひとり、このわたしであり、あなたなのです。100人で祈るときも、1,000人で祈るときもれは変わりません。しかし、一人ひとりをこの世界にたった一人のものとして、すべての人を愛する、はたしてこのような愛が可能でしょうか。それは文字どおり「人間わざ」ではありません。人間にはとうてい不可能です。そして実は、それこそが神の愛、神の愛し方なのです。
少し横道にそれて、「愛」という言葉について考えてみましょう。現教皇、ベネディクト16世はその『神は愛』という本のなかで次のような説明をしておられます。
愛を表す三つのギリシャ語-すなわち、「エロース」、「フィリア」(友愛)、「アガペー」のうち、新約聖書記者が好んで用いたのは、最後の「アガペー」でした。
わたしたちの世界で愛といえば、ほとんど「エロース」(性愛)を指しているように思われます。けれど新約聖書が神の愛を表すとき、多くの場合、「アガペー」で表されているのです。それはキリスト教がエロースの愛を否定しているのではなく、「エロース」と「アガペー」が調和のとれたものとなればなるほど、愛はより完全に、より本物になっていくのです。
一人ひとりをかけがえのないものとして愛しながら、すべての人を愛するという愛。エロースとアガペーを完全に調和させておられるのが神です。ですから、わたしたちは躊躇することなく神と一対一で向き合えばよいのです、というよりそうする必要があるでしょう。それは決して狭い個人主義に閉じこもることではありません。愛は愛する者同士を似たものにしていきます。わたしたちが神に似れば似るほど、わたしたちの愛は狭い個人主義をぬけだし、より普遍的な愛へと成長していくでしょう。
文:中山真里