≪NDVアーカイブ≫ リジューの聖テレーズと日本 伊従 信子

2019年5月22日

HPを開設して9年になります。はじめは30人ほどの方々が読んでくださっていましたが、
いつのまにか世界中から大勢の方々に閲覧していただけるようになりました。
初期に掲載し、余り読まれていなかった記事を少しずつご紹介していこうと思います。

今回は2010年8月に掲載しました『リジューの聖テレーズと日本』です。

 

2001年に教会博士テレーズの祝日10月1日から、連続講演会が 「福音宣教の使徒テレーズ」 という共通テーマでリジュ―のバジリカで開催されました。
その時の伊従信子 (ノートルダム・ド・ヴィ会員) の講演を要約して紹介いたします。

 

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15歳当時のテレーズ

1997年8月に「世界青年大会」 がフランスのパリで開催された時のことでした。シャン・デュ・マルス競馬場ではミサが始まろうとしていました。世界各地から集まった100万人もの人々の熱気の中に、若者たちの行列が祭壇に向かっていました。その先頭を行くのは、15歳のテレーズの大きな写真でした。すでに自分のすべてを神にささげ、どんな逆境にもめげないきっぱりとした決意の顔です。この行列はとても印象的でした。テレーズが現代という砂漠を横断する神の民を導くモーゼのように見えたからです。

テレーズは生前言っていました。

  「私の天国は、世の終りまで、地上の人々を助けることになります!・・・助ける人々がいる限り私は休むことはできません。」
『最後の言葉』1897年7月17日

  「私にはただひとつの国に布教するのでは足りません。世界の五大陸、最も遠い島々までも福音を述べ伝えたい。宣教師になりたい、それも幾年かの間だけでなく、この世の創造の初めからその終りまで宣教師でありたい。」
『自叙伝』 P.251 (ドン・ボスコ社改訳版)

「最も遠い島々までも福音を述べ伝えたい」と言っていたテレーズの望みは、極東の果ての日本において実現したと言えないでしょうか。以下第一部において、テレーズのこの果てしない望みがどのように実現していったか追ってみたいと思います。第二部ではまったく異なる文化のうちに育った三人の日本人がどのようにテレーズと出会ったかを紹介します。その三人とは「赤とんぼ」で知られる詩人三木露風、若くして亡くなった仏教徒の哲学者宮沢賢治、そして死刑を宣告された殺人犯正田明です。

テレーズの日本への道

テレーズと宣教師たち

1896年、ゴンザガのマリー院長はテレーズにパリ外国宣教会のルーラン師を霊的兄弟として与えました。

「あなたとごいっしょに、人々の救いのために働けるのは、本当にうれしいことです。私がカルメル会修道女となったのも、このためでした。活動の宣教者となることはできませんので、私も、私たちの母聖テレサのように、愛と苦行とによって、宣教者になりたいと思いました。」

このように、テレーズは6月23日に最初の手紙をルーラン神学生に書きました。彼は叙階後に中国に向けて出発することになっていました。

ほぼ時を同じくして一人の青年がパリ外国宣教会に入会しました。一八七七年一月一九日生まれのシルバン・ブスケです。彼は一九〇一年六月に叙階してから、大阪に着任することになり、リジュ―のカルメル会修道院に祈りを願いました。四年前にすでに亡くなっていたテレーズの姉アニェスから、「妹はあなたといっしょに宣教地へ赴き、そこでの宣教を助けるでしょう」と返事がありました。

『小さき花』

着任するとすぐ、ブスケ師はテレーズをできるだけはやく日本の人々に知らせたいと思いました。というよりテレーズに日本人の心に働きかけてほしいと願ったのです。そこで早速テレーズの伝記『ある霊魂の物語』を訳そうと思い立ちました。

一方、パリ外国宣教会の司祭マルモニエ師 (1786―1933) が、ブスケ師より1年早く日本で宣教していました。彼もまた1898年に出版された 『ある霊魂の物語』 を読んで、テレーズの果てしない望み (愛である神を愛させること) に心うたれていました。彼は大阪教区において聖ヨゼフ印刷所を創設し、出版事業に携わっていました。そこで彼は『ある霊魂の物語』の日本語訳出版を快く引き受け、1911年千500部を刷りました。そのことをマルモニエ師は1911年7月3日リジュ―のカルメル会修道院に書き送っています。(註:テレーズの列福1913年、列聖1925年)。

「すでに450ページ印刷が済みましたが、まだほぼ同じページ数が残っています。印刷されただけを読んだ人々にすばらしい影響を与え、すでにテレーズは<リジュ―の小さき聖人>と呼ばれています。日本語版の売上はすべてテレーズの列福の費用を助けるために全額あてたいと思います。

テレーズの<バラの雨>は、日本での雨が加わって速やかに大雨となることでしょう。神の慈しみをこれほど必要としている惨めな地上に、小さきテレーズを通して慈しみを注いでくださった神は祝せられますように・・・」


『ある霊魂の物語』日本語訳は、世界で最もはやく外国語に訳された訳本の内に数えられています。この本によってテレーズは最も遠い島にたしかにやって来たのです。日本語では『小さき花』と題され、初版1500部は1ヶ月で売り切れとなり、版は相次いで重ねられました。22版の中でブスケ師は、学生、教授、労働者、病人、仏教徒、プロテスタントなど異なる人々からの感謝の手紙について述べています。 (註:フランス語からのブスケ訳以外に英語からの翻訳、さらにプロテスタントの出版もある)

ブスケ師は1924年、 『小さき花』 3冊を宮中に送りました。1冊は摂政の宮に、もう1冊は妃殿下に、3冊目は東宮御所侍従長、珍田伯爵に直接送られたそうです。珍田伯爵の返事は『小さき花』22版の序文前ページに載せられています。

「・・・あなたが近年フランスが生んだ最も崇高な人々の一人の生涯を日本人に知らせたのはごもっともなことです。テレーズ修道女の自叙伝を読むすべての人が、私自身そうであったように、彼女によって魅了されたと伺っても驚きません。特に日本人読者は、われらの先祖の精神的遺産でもある単純さ、正直さ、思いやり、献身などの徳をそこに見て、非常に喜ぶに違いないと思います。

今日において、特にテレーズのような人物の観想をすべての人に勧めるのは有益なことです。なぜなら、この観想は人々の魂を高くあげ、彼らに最大の善をする性質のものですから・・・・」

 

『小さき花』 はテレーズの原稿に次姉アニェスによる修正がかなりなされていました。1956年に、修正が加えられていないテレーズの自叙伝がフランスで出版されました。このテレーズの自叙伝は、『思い出原稿A』 と 『原稿C』、 および長姉み心のマリーに宛てた手紙 『原稿B』 からなっています。日本では1962年に翻訳され、その後6版をかさねました。しかし、今の人々にさらに読みやすくしようとの意向で、1996年テレーズ帰天100周年を前に改訳 『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝――その三つの原稿』 が出版されました。同じ年、日本図書協会により推薦リストに加えられました。クリスチャンの数がきわめて少ない日本で、聖人伝という特殊な本が推薦されるとはまさにテレーズが降らせた<バラの雨>の感があります。

テレーズの輝き

テレーズの日本における輝きを他の面から見るならば、まず、テレーズにささげられた教会が二十五もあると言わなければなりません。最初にテレーズにささげられた教会は、一九二九年のものです。サレジオ会のチマッチ神父が1926年、テレーズが列聖された翌年来日され、宮崎県に着任されるとすぐ、教会を設立して、テレーズの保護のもとにおきました。

ブスケ師は、有名な「恵比寿の巡礼」に代わって人々が巡礼に来るようにと小さきテレーズにささげられた教会を建てようと思い立ちました。そして1924年、すでにリジュ―のカルメル会に祈りを願っていました。こうして1932年に完成したのが、夙川教会です。当時の洗礼台帳にはテレーズの名前が圧倒的に多く見られます。洗礼名に関しては全国的に「マリア」を次ぐのがテレーズ(テレジア)で、ラテン系の名前にみられるように男性形「テレジオ」としてまでも用いられていす。

また、音楽家でもあるチッマチ師はテレーズの詩および三木露風作詞テレーズ賛歌に作曲し、『幼きイエスの聖テレーズにささげる賛歌』と題しました。師は、来日後日本人への布教に音楽が役立つと見抜き、日本各地で2000ものコンサートを開きました。

そのほか、改心、司祭職、修道生活への召命に関してもテレーズは大いに働いたのでした。

伊従信子
ノートルダム・ド・ヴィ会員