(一)真実のマリアの姿
一八九七年春、カルメルで九年間生活した二十四歳のテレーズは、結核におかされ、余命いくばくもないことを十分承知していました。「わたしには、死ぬまえにまだしなければならないことがあります。それは聖母についてのわたしの考えを歌いあげる夢を実現することです」と、姉セリーヌに打ち明けていました。この<夢>をテレーズの代母である長姉マリーは感知していたのでしょうか、同じ年の五月、マリアの月にあたり、「マリアについての想い」を書き残すように依頼しました。これをうけてテレーズは、「おお マリアよ なぜ わたしはあなたを愛するのでしょう」と題する二十五節の詩を書き上げました。
「この小さな賛歌は、マリアについてのわたしのすべての考えと、もしわたしが司祭であったなら説教したいと思うことを歌っています」と説明しています。一八九七年五月に書かれた二十五節の詩と、同じ年の春ころからメール・アニェス(前院長)が病床のかたわらで忠実に書きとめた「テレーズの最後の言葉」をとおして、テレーズと聖母のかかわりを垣間見てみましょう。
ごく普通の日常生活を送られたマリア
「主よ、み言葉を聞かせてください。<真理とはなんですか>というわたしの問いにどうぞ答えてください。そして物事をありのままに見、何物にも目をくらまされることの ないようにしてください」
テレーズは、いつもこのように祈っていました。テレーズの死をまえにして、「あなたが亡くなるとき、主は天使たちを伴って迎えに来られるでしょう」と慰める修道女に、「わたしを養うもの、それはただ真理だけです」と、テレーズはきっぱりと答えています。
「マリアさまに関して本当でもないこと、知りもしないことを話してはいけませ ん」。「聖家族について教えられることでわたしのために役立つことは、よく人びとが想像したり、話したりするようなものではありません。それは、ごく普通の生活であったということです」と、実にはっきりと語っています。 マリアの真の姿と生活が知られていない。その真実を知らせるために司祭になりたいとさえ思ったテレーズは、聖母に関して何を洞察し、何をわたしたちに伝えたかったのでしょう。
信仰に生きる隠れた生活
「マリアさまについてのわたしの考えをあらわすのに、ただの一度で十分」というテレーズのメッセージは、人びとに知られていない聖母の隠れた生活を<隠れたもの>として伝えるというあまりにも簡潔なものでした。たとえば、三歳のマリアは、すでに神への愛に燃え、並々ならない熱心をもって神殿でご自身をささげられたとよく聞かされていたテレーズは、「実際には、両親に従って<いわれるままに>神殿にお参りにいらしのではないか」と臆せずに自分の考えを述べています。
ナザレトで、恵みに満ち満ちた母マリア、選ばれたものたちの女王は、まったく貧しく生きておられたと、詩の十七節で歌っています。
わたしは知っています 恵みあふれるおん母よ
ナザレの村で あなたは何も望まず
きわめて貧しく 生きておられた
恍惚 奇跡 脱魂などが あなたのご生涯を
飾ることはなかった
おお 選ばれた者たちの女王よ!
この地上には 数多くの小さい者がいる
彼ら小さいものこそは 恐れおののくこともなく
あなたに向かって 目を上げる
比類なきおん母よ 彼らを天国に導こうと
あなたは好んで 普通の道を示された (『テレーズの約束』210p)
ここでテレーズが「貧しく」というのは物質的貧しさではありません。脱魂・奇跡などが聖家族の生活を彩ることのない貧しい生活のことです。聖ヨゼフの仕事の支払いを断られたり、その仕事について苦情を受けたりする聖母マリアは、妻・母として女性の苦労を奇跡によってまぬがれたわけではありません。聖家族の生活はまったく単純で、「神さまにとって奇跡をおこなうことは、いたってやさしいことだったでしょうが、すべてわたしたちの生活のようでした」「聖母の本当の生活は、まったく単純なものであったとわたしは確信しています」と語っています。
このようにテレーズがマリアの隠れた生活を「説く」と木に強調するのは、平凡なナザレでの日常生活で聖母がいかに信仰に生きていたかということです。
あなたは わたしに感じさせてくださる
あなたの足跡を踏むのは 不可能ではないと
おお 選ばれた者たちの女王よ!
あなたはいつも もっとも慎ましい徳を行い
天国への狭い道を 目に見えるものとされた(六節、『テレーズの約束』207p)
マリアの生き方は信仰に生きる隠れた生活であり、この地上ですべての「小さい人びと」があやかれる生き方でした。日常の平凡さ・困難のさなかで、小さきものがその疲れたまなざしを臆することなく、聖母に向けることができるほど近づきやすい母マリアです。「聖母の生活を近寄りがたいものとして示すのではなく、聖母はわたしたちと同じように信仰によって生きていらしたことを浮きぼりにして、マリアさまの生活をあやかりやすいものとして紹介する必要があります」。それを福音書のなかから証拠となる箇所をあげて示す必要があると付け加えています。 たとえば、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(ルカ2・50)。神の母マリアが、いかに知性にとっての暗夜、信仰の暗い光に照らされて生きておられたかを示す必要があると、二節でテレーズは強調します。
聖なる福音に記された あなたの生涯を想いつつ
わたしは あえてあなたを眺め あなたに近づきます
わたしがあなたの子だと信じることは
そんなに難しいことではありません
なぜなら あなたもわたしと同じように
苦しみ そして死ぬのだから……(『テレーズの約束』202p)
(斜体の部分は「強調されるべき箇所」としてテレーズ自身がわざわざ『注』をつけています。これはわたしたちにとって非常に興味深いことです。)
女王であるよりも母であるマリア
おお! わたしは歌いたい!
マリアよ なぜわたしがあなたを愛するのか
なぜあなたのやさしいみ名が心を躍らせるのか
なぜあなたのこの上ない偉大さに思いを巡らしても
わたしの魂は恐れおののかないのかを!
あなたがおられるのは 崇高な栄光の中
あなたの輝きは あらゆる聖者に注がれる
けれども マリアよ あなたのみ前で
わたしは 目を伏せたりはいたしません!(一節、『テレーズの約束』200p)
ここに、マリアの子として威厳・喜び・謙虚さを感じ取ることできます。しかし、子としての自覚・母への親しさが、テレーズに決して聖母の崇高さを忘れさせることはありませんでした。かといって、マリアの偉大さがテレーズをおそれおののかせません。両極をしっかりとらえた関係こそ、テレーズと聖母との美しい均整のとれた関係といえましょう。
無原罪であり神の母である聖マリアの輝きは、すべての聖人たちの光栄をおおい隠すと、たびたびテレーズは聞いていました。しかし、「そのようなことを人びとに信じさせてはいけません。何とおかしなことでしょう。母が子の光栄を消してしまうとは! まったくその反対で、聖母は選ばれた者たちの輝きをいっそう増してくださるかただと思います」と、テレーズは反論します。「マリアさまは、天と地の女王ですが、それ以上に母です」c8.21)。
そして、「わたしたちは、マリアさまよりもっと幸福です」と付け加えるのでした。なぜでしょうか。「マリアさまには、わたしたちが慕うような聖母がいらっしゃいません」から。それで、わたしたちは聖母以上に恵まれているのだと、まさにテレーズ流の結論を出すのです。
ある司祭の手紙に、聖母は肉体の苦しみをご存じなかったと書かれていたことに対して、テレーズは否定します。「マリアさまは、ご旅行のあいだ、寒さ・暑さ・疲れなどで大変苦しまれました……苦しみが何であるかご存じです」。子が母を慕い愛するには、母親は子とともに泣き、その子の苦しみを分かち合う必要があります。詩のなかでテレーズは歌います。
子どもが母を愛することができるのは
母が 子どもとともに泣き 子どもの苦しみを背負うから
ああ わたしの愛するおん母よ この異郷の岸辺で
わたしを引き寄せようと あなたは涙を流された
(二節、『テレーズの約束』202p)
テレーズはたしかに自分の内的体験をとおして、マリアがいかに母であるか、自分の苦しみをわかち合っていっしょに泣いてくださるまでに母であるかを知っていました
つづく
伊従 信子
『テレーズを愛した人々』(女子パウロ会)より