十字架の聖ヨハネ みことばの光についての証言(あかし)(2)

2010年12月11日

N.P. N.M. Venawque etc173

まなざしの浄化

大事なことは何でしょうか。わたしたちのまなざしを浄めることです。十字架の聖ヨハネのようにすべてのうちに、すべてを通して神に至るまでにわたしたちの信仰が浄化されますように。わたしたちは神から出、神へと戻ってゆきます。この地上での生活はわたしたちを徐々にすべてのものから解放し、わたしたちを愛情そして執着しているものからわたしたちのまなざしを浄められるためにあたえられています。わたしたちのまなざし、渇望が神以外のものに向かうことのないように。まことに神こそがわたしたちの目的でありますように。神のうちに慰め・美しさ・光りさえも探し求めず、ただ神ご自身を求めるように。なぜなら神のうちにのみ、わたしたちは目的・喜び・開花を見いだし、この地上において神のうちにのみ、光を見いだすことができるのですから。

貧しさのうちに神を呼ぶ

十字架の聖ヨハネの跡を慕ってわたしたちが歩むように彼に願いましょう。そしてわたしたちのまなざしを浄められるよう導いてもらいましょう。おそらくごく簡単にできることなのでしょう。わたしたちは多くの場合わたしたちにとって助けになるものを、妨げとみなしてそこに留まってしまいます。たとえば自分の弱さ、貧しさ、みじめさとか、あまり利口でない、聖なるものでないとか(少なくとも自分で思い込んでいる聖性に照らしてみて)。このようなことはすべて、実はわたしたちの信仰を浄め澄んだものにする手段とすることができるのです。

実に、わたしたちを覆っている惨めさ、傷、わたしたちがどっぷり浸っている弱さ、徳のなさ、洞察力の不足など、すべては手段となり得るのです。こうしたすべての貧しさのうちに信仰を打ち立てていかなければなりません。もし貧しさがないなら、造り出すことさえして、その貧しさのうちに神を呼び求め、貧しさのうちに埋没するのではなく、この貧しさのうちにこそ信仰を打ち立て、神へと向かい、神のうちに浸る必要があります。

信仰は貧しくなければなりません。すなわちすべてのものからの貧しさ、特に自分が所有していないと嘆くものごとから貧しいこと。もし嘆くなら、わたしたちはまだそれらに執着しており、その貧しさは真実ではありません。まだ物質的すぎ、まだ霊的ではないのです。

神に到達するためには、完全で絶対的な貧しさ、いわば廃墟のように、すべてが打ち砕かれたようなまったき離脱のうちに、信仰を打ち立てて生きなければなりません。信仰は廃墟に、カルワリオの闇と敗北のうちにこそ輝きだすのです。聖アウグスチヌスが言うように蝋燭台を立てるのはそこなのです、「蝋燭台、それは十字架である」。この蝋燭台の上にこそわたしたちのところに届く「みことばの光り」は輝いています。この光がわたしたちを照らし、この光にこそわたしたちのまなざしは常に注がれていなければなりません。なぜなら、十字架にはり付けられた「みことば」のうちにこそ、わたしたちは光を見つけるのですから。

このような単純なまなざしと信仰の純一さの恵みを願いましょう。単純なまなざしも信仰の純一さも富を必要としないだけでなく、むしろ富を恐れるということを思い起こしましょう。それが物質的、感覚的、知的富であろうと、たとえそれが霊的な富であろうとも。なぜなら、どのような富であれ、富は自分を養い、汚し、神への飛翔を妨げます。そして神へと向かう力、洞察力を失わせてしまうからです。わたしたちのまなざしが神のみことばの光りにじっと注がれるとき、みことばの光りは降りてきて、そして「全身が明るく輝く」のです。確かに、十字架の聖ヨハネの体のように、わたしたちの体も光り輝くようになりうるのです。 わたしたちの弱さが何でしょう。神の光りはさらに輝くため、特別に反射するために、わたしたちの弱さを使うのです。湿気を含んだ雲を通して、太陽の光線は虹を発生させるではありませんか。また太陽光線は、人間の手による洗練された宮殿よりも、荒れ果てた廃墟のなかにより明るく、よりやわらかく光り輝くのは事実ではないでしょうか。

「みことばの光」の反射、無限罪のマリア、マグダラのマリア、良き盗賊

カルワリオを眺め、そこに輝き、闇にみなぎる「みことば」の光りを見るとき、もっとも純粋に、もっとも効果的にわたしたちにこの光りを反射してくれる鏡とはいったい何なのかと問うてみます。確かにそれは処女マリアに違いありません。傷なき、清純な乙女、無原罪の母マリア。彼女はわたしたちに、「みことばの光り」、豊かな実りをともなった光りを、わたしたちに反射し送ってくださいます。しかし、彼女のそばに誰が居るのでしょうか。そこにはマリア・マグダレナと良き盗賊がいます。

マリア・マグダレナ、彼女もまた一つの鏡です。感覚的、官能的なみじめさで汚れているかに見える鏡。しかし、わたしたちがこの鏡を通して受ける光線はとてもやさしく、穏やかなのです……そこには良き盗賊もいます。犯罪を重く背負っている盗賊もまた、十字架上の「みことば」の慈しみの光りを受けているのです。彼の魂の鏡が送る光りは、彼の言葉、彼の主への信頼の証しにより、また犯罪を背負ったものの鏡によってわたしたちへと届く光りなのです。このような光りこそ、わたしたちの惨めさや貧しさにとって、もっとも慰めになるのではないでしょうか。

確かに、神の光りはすべてを使われます。神のこの光りは、十字架の聖ヨハネを通すと、ちまたの流行歌、官能的な歌でさえ浄めてしまいます。するともはや「神の愛」と神のものとなった人の愛についてしか歌わなくなるのです。すべては浄められ、「すべては光り輝く」。確かに、すべては澄んでくるのです。

 

わたしたちの惨めさは光の源となりうる

これらのことのうちに、何という貴重な教訓があるのでしょう。わたしたちの惨めさは、決して妨げとはならない。みじめさは一つの手段であり、貧しさは必要なのです。自分のうちにかかえている貧しさや傷を利用しましょう。十字架の聖ヨハネは、わたしたちの惨めさは神の光りのもとに置かれるならば、光りの源となると教えてくれます。良き盗賊、マリア・マグダレナ、そしてトレドの流行歌がその事をわたしたちに証ししてくれます。

では、自分のみじめさを信頼をもって近付き、受け入れましょう。使徒パウロのように、わたしたちが何かを誇りとするなら、このみじめさをこそ誇りとしましょう。「わたしは弱いときにこそ強いからです」IIコリ 12:10
なぜでしょうか。この弱さはある意味で、わたしたちに権利を与えてくれるといえるでしょう。少なくとも神の慈しみを呼びおこしてくれます。神の光を浴びると、弱さ、貧しさは満たされ、浄められます。それ以上に、みじめなものでしかない自分にも、神の光りを人々に証しすることが出きるのです。

カルワリオでの聖母の証しを思い起しましょう。もちろん聖母の証しは、無原罪による比類ない証しです。このような完全な清さがなければ、マリア・マグダレナ、良き盗賊に近付きましょう。神の光りについての証しが、わたしたちの惨めさ・貧しさ・傷・弱さを通して、または、神の光り・慈しみ・愛の力強さをこの世に証しすることになるかもしれません。このような証しがわたしたちの使徒職となりますように。すなわちわたしたちのような弱く、貧しく、みじめなすべての人々が、神の愛と光りの火のもとに、単純なまなざしを培い、霊的生活の頂へと魅了されますように。

このような単純なまなざしに至ることが出きるように、十字架の聖ヨハネに助けを願いましょう。そしてわたしたちのうちに、その熱い想いをわかせ、その実現にあったてどのようにしたらよいのか導きを願いましょう。わたしたちが持っている宝、すなわち洗礼のとき与えられた対神徳(信望愛)というアンテナに気付くように。このアンテナによって、真に、効果的に、ますます親しく神に触れることが出きるのであり、神の光り、みことばの光りにさらに深く入っていくことが出きるのです。わたしたちの全身が明るくなり、「家の中にあるすべてのものを照らす」マタイ 5:15 ように、わたしたちに近付く人々を照らすことが出きるように、自分自身がまず光りに満たされますように。

おわり

                           マリーエウジェンヌ神父

                           伊従 信子編訳