十字架の聖ヨハネ みことばの光についての証言(あかし)(1)

2010年12月4日

N.P. N.M. Venawque etc175

みことばの光についての証言

「ともし火をともして、それを穴藏の中や、升の下に置く者はいない。入ってくる人に光が見えるように燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」 ルカ 11:33-34

かつて典礼は、十字架の聖ヨハネの祝日にこの聖句を使用しました。福音史家ルカはここで、光と単純さを讃える主の言葉をあげています。わたしたちの体は光り輝くか、または暗闇に包まれているといっています。もし、わたしたちのまなざしが単純になるなら、「あなたの全身は光り輝くでしょう」、そうでなければ暗闇に包まれているでしょう。この聖句は十字架の聖ヨハネの祝日を、光の祝日として祝うようにわたしたちをうながしているようです。

彼の死後、その体は光を放っていたと言われています(列福調査証言)。十字架の聖ヨハネのまなざしは澄みきっていたので、彼の体は光を放っていたのです。ここからわたしたちは教訓を得ると幼きイエスのマリー・エウジェンヌ師は著書Presence de lumiereで述べています。今回編訳で紹介することにします。

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なぜ彼の体は光を放っていたのでしょうか。 彼が天的なものの深さと、そして魂の深 みを同時に洞察できるすばらしい知性と天才にめぐまれていたからでしょうか。総合的な彼の知性が、サラマンカ大学で学んだ神学の実りと、内的に発見した(心理的、霊的)実りを統合することを知っていたからでしょうか。 それゆえに彼は霊性と神秘神学の博士になったでしょうか。そうではありません。彼の魂が輝き、祝日が光りの祝日であるのはそのためではありません。彼の体が光を放ち、彼の魂が光で包まれていたのは、十字架のヨハネが澄んだまなざしをもっていたからなのです。  

単純なまなざし

「単純なまなざし」とはどういうことをいうのでしょう。見る目が単純ということでしょうか。そうではありません。それはまなざしの単純さであり、とりわけ魂のまなざしのことです。いうなら、信仰のまなざしのことなのです。彼は単純なまなざしによって、観想を実現しました。真理への単純なまなざし。「単純」とは信仰のまなざしがあらゆる不純なもの、罪・汚れ・神へと向かうのに妨げとなる一切から解き放たれていることを意味します。つまり感覚的支えとなる一切のものから解放され、まなざしがもたらす霊的体験の支えとか、霊性がもたらす知的な支えなどからさえも自由であることをいうのです。

十字架の聖ヨハネの澄んだまなざし、彼の知性に据え付けられた信仰というアンテナのまなざしは、神だけしか目指さず、神ご自身しか望まなかったのです。たとえ、それが暗闇に包まれていようとも、あるいはむしろ暗闇に包まれていたとしても、彼の信仰はこの闇の中で新たに浄化されるのでした。

何ものにもとどまることなく一切を超越する。これが彼の生き方でした。あらゆる支え、あらゆる善、感覚的、知的、霊的なもの、あらゆる視幻、彼の過去そして未来のすべての高度な体験さえもすべてを超越すること。見ることも、望むことも、渇望もせず、神の中にのみ、彼の信仰だけがとらえることのできる闇におおわれた神ご自身の中にのみ、その身を沈めるためでした。 

光の人、十字架の聖ヨハネ

このやみがたい望みは成功をおさめたのです。彼は遂に神ご自身に到達し、そこに沈んでいました。こうして彼はわたしたちの計り知ることのできない深淵にたどりついたのです。そこで彼は自分を照らした光を吸収し、自分を変容させた愛を汲み取りました……「あなたの目が澄んでいるなら、あなたの全身は光り輝く」。ここに光りの人、十字架の聖ヨハネの姿があります。彼は信仰のうちに上智である神に嫁ぎ、神の上智自ら彼と親しく交じわれたからです。 

確かに、この神の上智、この光りは十字架の聖ヨハネのものではありません。福音史家ヨハネが洗礼者ヨハネについて言ったことは、そのまま十字架の聖ヨハネについても言えます、「彼は光ではなく、光りについて証しするために来た」 ヨハネ 1:8。

十字架の聖ヨハネの光りとは、みことばの光り、神の上智の光りの「証し」です。彼が発見した光りは、家の戸口にたたずみ、大気中に留まっている太陽の光りのようです。その光りは、わたしたちが家の窓を開けないかぎり、家の中に入ってきません。神の光りは、ちょうどこの太陽の光りのように、わたしたちが霊魂の窓を信仰のまなざしによって開けさえすれば、わたしたちのうちに豊かに注がれ、光りそのものへと変容させてくれます。十字架の聖ヨハネはこのような神の光りが存在し、そのすばらしい働きの効果を自分が光りそのものに変えられることによって、わたしたちに証ししてくれます。「目が澄んでいれば、あなたの全身は光り輝く。」

ここに、わたしたちが心に留めておかねばならない教訓があります。この澄んだ目が、一切を浄めるということ。澄んだ目によって、一切を浄化し、一切を変化させ、変容させる光に到達することができること。十字架の聖ヨハネはこのことについて語り、このことを示してくれます。

聖人の祝日にあたって、彼の教えを思い起し、彼のうちになされたすばらしい神のみ業をたたえるだけでなく、わたしたちも彼の模範にならい、跡を慕って歩むように心がけましょう。

                                                         マリーエウジェンヌ神父ocd

                         伊従 信子編訳

― つづく―