ナザレの生活は非凡な生活ではありませんでした。何ということもない出来事、
ほとんど何もない単調な生活・・・このような平凡な生活に神の強烈ないのちが
潜んでいるのです。
―幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父 ocd―
イエスが30年間過ごされたナザレは、今でこそ世界中から巡礼者を魅了していますが、イエスの時代「ナザレから何かよいものがでるだろうか」といわれた寂れた村でした。そんな寒村で30年<大工の息子>として過ごされたイエス・・・。そのイエスには父である神からすべての人をあがなうというみ業が託されていました。何という神秘なのでしょう。
地上で過ごされた33年のうち30年もの歳月を人から知られることなく過ごされたイエス。わたしたちが生きるように生きられました。イエスはわたしたちと同じ人間として生きることが何であるかご存知です。
わたしたちはとかく忘れがちです、神から平凡な生活に呼ばれていることを。わたしたちは人々によいことをするために素晴らしい能力を使って、何か素晴らしいことをしたいと思いがちです。
けれども、ナザレの生活はそのような非凡な生活ではありませんでした。何ということもない出来事、ほとんど何もない単調な生活・・・。このような平凡な生活に神の強烈ないのちが潜んでいるのです。そこに信仰、愛、そして希望があります。というのもこの平凡な雰囲気は希望を生き生きとさせないことはないからです、しかも強力に! *
しかし、平凡な日常生活の出来事のうちに神の愛の導きを見る信仰のまなざしは不可欠です。「わたしは信じます、しかし、さらに深く信じさせてください」
伊従 信子
*『神と親しく生きる いのりの道』 聖母の騎士社、2009